勉強を楽しくする方法100〜一歩踏み出そう〜

勉強は全てを網羅できる類のものではない。
人生には限りがある。
しかし、希望もまたそこにある。
今、目標に対して届いていなかったとしても、今日から継続すればきっと変われる。
凡人でも素人でも、スタートさえ切れれば変身させてくれるのが勉強だ。

勉強に対しては誰もが苦痛で顔を歪める。
勉強をポジティブに評価して、大好きだと答える人にお目にかかることは滅多にない。
しかし、私は純粋に勉強は楽しいものだと捉えて、ここまでの人生を歩んできた。
だから、勉強の楽しい側面ばかりを100個言えと言われればできる自信があった。

勉強は手段であって、目的ではないという人もいる。
だから、勉強を楽しんでしまっては手段に溺れているではないか、という人がいる。
しかし、楽しさにもいろいろある。

出口治明氏の本の中にシャネルの次の言葉が、紹介されていた。
「私のように、年老いた、教育を受けていない、孤児院で育った無学な女でも、まだ1日にひとつぐらい花の名前を新しく覚えることはできる」

宇宙の理について日々知っていくことができる楽しさ。
人間は知的好奇心をだれでも持っている。
ゆえに、新しい気づきの発見や体験的な楽しさもある。
達成感といったものにも、楽しさを感じることができる。

教育なのか仕事なのか、何かにノルマ達成を迫られて、「知ることそのもの」の楽しさを忘れ、勉強は得点を取り、キャリアを築くために奉仕する道具として供されるようになっていく。

その側面は確かにある。
仕事に厳しい人であれば、まさにそこを分かっている。
確固たる知識や高度な技術がものをいう世界は確かにある。
しかし、その知識や技術が人とのつながりを生み出し、それで人の喜びを生み出した時に自ずと「この分野の魅力とは何か?」と考える時がくるだろう。

卓越したパフォーマンスを各界で見せる人物たちは皆、勉強している。
そして、自分が仕事をしている分野の重要性や価値を知っている。
自分は貢献したい、価値を提供したいという信念がきっとある。
信念は極めて人間的なものであり、その人の主体的な動機である。
そんな人であれば、きっと勉強の楽しさを理解しているのではないか。

勉強したものを道具や技術として使っていたとしても、それは人のために使っている。
そこから生まれる笑顔があり、感謝が返ってくる。
プラスのフィードバックが返ってくる。
そして、ふと思う。
「私の持つ技術や知識の魅力とは何か?」

思考はさらに進んでいく。
「自分は何がやりたいのだろう?」と自問自答する。
「もっとできることはないか?」と考える。
「もしかしたら、こんなこともできるのではないか」とワクワクする。

そこから「これをしたい!」となった時に勉強は楽しいものに変わる。
その楽しさの種類は一言では説明できない。
しかし、多くの人が自分の気持ちを無視して、やらされる勉強を実践しているような気がする。
得点をとるための勉強をやらされ、昇進するために好きでもない勉強をやらされる。
しかし、勉強そのものに対して、自分が本当にやらされていたり、嫌いなのかを考えてみる。
本当はこんな勉強の中には面白い部分もあれば、やりたいこともある。
他の分野であれば、なおさらその傾向は強まる。
自分と相性の合う勉強もあれば、合わない勉強もあるだろう。
そして、合わないと思っていた分野であっても、自分の動機を明確にすることで面白いと捉えることもできるようになってくる。

自分の心からしたいことを、やればいい。
やりたいことを勉強するだけで、勉強は面白くなる。
そして、全部やらなくていい。
嫌いなことや苦手なことを必ずしもやる必要はない。
その必要性は、今ではないだけで、未来に訪れるかもしれない。
自分が好きなことや得意なことをやってみたらいいのではないだろうか。

もちろん、状況がそれを許さないこともある。
受験科目はまさに典型例だろう。
苦手科目は当然出てくる。
それはきっと今は、必要性が感じられないかもしれない。

私は高校時代、数学が苦手だった。
その時、理解を諦めたくなかったから、浪人した。
結局、数学ができるようにはならなかったものの、嫌いにはならずに済んだ。

中学生の時、数学は好きだった。
まだ、中学生レベルであれば、手に負えたということもあるが、数学的な考え方が面白いと感じていたのだ。
数学の先生の授業が上手だったこともあるかもしれない。

一方で社会人になると、人文科学系の分野ばかりに没頭してきた。
ふとした時に、「一皮むけるためには自分に足りないものは何か?」と考えてみた。
そうすると、自分がやらなければいけない分野があることに気が付いた。
それが理数系の分野だった。
AIやテクノロジー、環境問題を理解するためには理系のリテラシーは必須だ。
そして、思うのだ。
「これでもっと面白くなる」と。

今苦手なことでも、嫌いになりそうなことでも、それは今の自分がそうなのであって、未来永劫そうだとは限らない。
嫌いな分野で現状を切り開けることもある。
むしろ、嫌いで避けてきたからこそ、成長する好機を逃してきた可能性もある。

勉強が完成するときはないだろう。
広がっていくばかりである。
広がるほど、その広がりの全貌がつかめなくなる。
そればかりか、世の中に誰も分っていないことがこんなにもあるのか、と茫然と立ち尽くす。

そんな時代に、勉強が楽しくなければ希望もない。
自ら勉強する姿勢があってこそ、勉強が楽しくなる。
一つ知っているだけで、世界が変わる。
全部知ることができなくても、自分でその中から選んでいったらいい。
全てのことを知っている人間など、この世にはいない。
そして、それはおそらく人間でもない。

全部知っている必要はないのだけども、知ろうとするのは人間の本能だ。
人間だからこそ、無限に広がっていく知の世界の中から、自分の感性に応じて選び、さまざまな気づきを得られる。
コミュニティも生み出せる。

あなたが知りたいことを選んで、取る。
それで、人生が楽しくなる。
張り合いが出てくる。
人と繋がる。
人生の船が走り出す。

自分の感性が動いて、勉強する。
あるいは、やらねばならないことであったとしても自分の感性を鈍らせない。
面白くするための工夫はできる。

終わりなき勉強の旅はいつでも、「自分の感性」から始まる。
終わることはない代わりに、ずっと楽しめる。

やらされるのではなく、やる。
自分を起点に始まった一歩は大きい。
偉大な価値がある。
どんな地点から始まっていても関係ない。
むしろ、始まりはこれからだ。

この「勉強を面白くする方法」シリーズは今回の100項目を以て、いったん筆を置きます。
このnoteに投稿を続けることで、自分にもやれるのだと自信を得ることができました。

また、次は違った趣向で書いていきたいと思います。
今まで、私の文章を読んでくださった皆様に感謝いたします。

ありがとうございました。

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