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日本一小さな文学館を訪ねる

 父の作品を研究する「吉村昭研究会」のことを私が知ったのは会が作った父の目録を見た時だ。すべての作品と発表年月日が記されている辞典のごときの大型冊子で、一人の読者ファンが作ったことに驚いた。
 父は読者から来た手紙に対して返事をまめに出していたが、研究会からの手紙に対しては特別な思いがあっただろう。なぜなら父が作品を発表すると研究会の会員の方々から、「史実に沿っていない箇所あり」と指摘を頂くこともあるからなのだ。
 父の歴史小説は徹底した調査を元に執筆されており、編集者からは「調査魔」と言われる程であった。しかし、それでも数名の読者から父は指摘を受けていた。
 その指摘に父は納得すると、次回増刷分より訂正させていただくと、手紙の返事を書いていた。私は指摘された父の誤記箇所を確認すると、それは些細なことで、歴史小説の使命とはなんら関係ないものに思えたが、しかし、そういうものではないのだ、読者と父との「絆」である。父は作品発表後も間違いを認めれば丹念にそれを訂正をしていた。
 ある夕食の時である、「今回の作品に間違いなし」と手紙がきたよと、父は笑い、嬉しそうに私に報告した。

 「吉村昭研究会」から季刊会報誌や論文、資料などが続々と送られ、父は感嘆な声をあげた。母は自分の作品のファンにはないものを見て
クレージーだと言った。
  父が亡くなり会の会長、木村暢男氏が三鷹の自宅に訪ねてきた。氏は母に父に対する思いの丈を語られた。母は木村氏を父の書斎に案内した。母はそこに残っていた生原稿数枚を木村氏に手渡した。私はその際の木村氏の表情を忘れない。
この夏、千葉の袖ヶ浦に父の資料館ができたことを私は知った。「日本一小さな文学資料館」と地元新聞に取材されたそれは、二代目会長の桑原文明氏が住まわれているアパートに作られていた。
 6畳の空間に、父の自費出版本「青い骨」を始めとして、対談記事が収めらた月刊誌など、父が関わった作品や他の作家本の推薦帯に至るまで展示されていた。
 壁には桑原氏が作った作品年表がはられていた。1971年に合計13本の作品を並行で書いていたことが視覚的にわかる。もっとも多筆な時代、父は43歳。しかし、その後、作品の発表間隔が徐々に空いて来、そして2006年、2つの作品がプロットされて、年表はそこで終わっている。
 桑原氏の収集した資料は常軌を逸していた。父や母、瀬戸内寂聴氏が切磋琢磨した同人雑誌「赤絵」「Z」や、さらに母を驚かせたのは大学時代の「学習院文藝」さえ保管されていたのであった。母は呆気にとられた。
 私は棚におびただしい大学ノート群が収まっているのを目に止めた。その一つを手に取る。「長英逃亡」とある。それは父の長編小説。開いてみるとそれは新聞連載の切り抜きだった。桑原氏は父が新聞連載をはじめるとその新聞を契約した。ノートには父が新聞連載した作品すべてが、整理され保管されているのだ。ノート1ページに2回分連載の切り抜きであった。
 ポストに届けられる新聞に桑原氏はまず父の作品に目をやる。読後、愛しむようにそれは切り取られ、大学ノートに貼られていったのだろう。私は毎朝続けられる作家と読者のいとなみをそこに見た。私はタイムスリップを手にしている。私の目頭は熱くなった。桑原氏と父との歳月がそこにあった。

 桑原氏が父の作品に触れたのが二十歳の時だと言う。奥様と宝くじが当たったら吉村昭記念館を建てようと夢を語り合った。奥様は他界され、御子息が住む袖ヶ浦に引越され、アパートを借りられた。
「日本一小さい文学資料館」をこの8月にオープンした。桑原氏は住み込み館長。宝くじは当たらなかったが奥様との夢は実現したのだ。

氏の調査によれば吉村昭の小説は371編という。全部を読んだ日本人は私とあと一人だけでしょうと言った。
「私なんて全然読んでない、こんな人いない、クレージーよ」と母が言った。
氏は笑った。「私がクレージーなのではありません、この人がクレージーです」と父の写真を示した。

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吉村昭文学資料館
9時~18時 年中無休 完全予約制
一般1000円 会報定期購読者・高校生500円
吉村昭研究会会員・小中学生は無料
袖ケ浦市福王台3の20の11 ゆみーる福王台103 
問合せ: 吉村昭文学資料館
TEL.080・6393・2549
http://www.sodekyodo.net/rgroups/view/556


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