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【連載】「こころの処方箋」を読む生活(pp.66-73)

河合隼雄の「こころの処方箋」の元になっているのは、60歳から四年間の連載である。

「あとがき」の中で河合は言っている。ここには「常識」が書かれていると。

教育臨床の現場で長く働いていてきた今の自分が見えているものからすれば、この「常識」には納得のいくものが多い。例えば、「人の心などわかるはずがない」もその一つである。

しかしそれは、39年間の人生をたどった中で得られた視点であり、とても「常識」とは思えない。

それでも、少なくとも今の自分にとっては「常識」と思えているものである。

何事も年齢で捉えるのは良くない癖だが、もうちょっと自分の自己像を、この頃の河合隼雄に近づけてみてはどうだろうと思った。

39など、まだ若造である。自分を若い、若者だと思っている。昔見た39歳像とは大きく離れている。思っていたよりも心は老いない。

しかし、いつまでも若造であるというのもまたしんどいものである。特に、日本社会ではどこか年齢というもののイメージに乗っからないといけない部分が未だにある。自分がその呪縛に縛られているだけかもしれないが。

いずれにせよ、自分を若者と捉えてしまうと、少ししんどさを感じてしまっている。自分の見た目が童顔なのも相まって、なんとなく「青年」ではないけれども、「中年」でもないような接し方をされる。けれど、それに比して内面はすっかり「中年」である。これは、老い衰えるという側面よりは、まあまあ熟成された味がしますよ、という感覚である。

自分の中のまあまあ熟成された人格がズレを感じた時、そこにそのズレを補正するために、コミュニケーションにリキみがうまれる。

自分の等身大の人格から離れた人物像を思い描かれていると思ったときに、身体に力が入ってしまう。

そうならないためには、何よりも自分が自分の等身大をある程度認識する必要がある。

その等身大が、自分で思っているよりもずっと老成したものだと思っている。老成したなんて言うとまだまだ若いと言われそうだが、そう言われないように「自分はまだまだ若輩者です」「まだまだこれからです」という姿勢をしてしまう。けれど、それはやっぱり自分のセルフ・イメージからすると違和感があって。

やっぱり、自分としてはある程度老成してしまっていて、そのセルフ・イメージでいた方が、心地よいのだ。

老成とは、停滞して衰退していくというイメージではない。孔子や老子のそれだ。ある程度の人生を辿ってきていながらにして、それらが熟成され、ある程度の味わいが出ている段階だ。それは、もちろん、まだまだ変化する。しかし、商品としては提供できるレベルである。

言ってみれば、謙遜に飽きたのかもしれない。自分を必要以上に力のない存在、知識や経験のない存在として見せるのに飽きてしまった。

比較的そんなことはないとは思っているが、まだまだ謙遜癖は残っている。自分の価値を確信していながら、それを秘匿するのは面倒である。

結果的にそれは、自己主張を少なくする。自分を謙遜するがゆえに、自己主張が必要になるという矛盾した行動が形成される。

自分なんて力がない未発達な存在であると言わなければならないがゆえに、自己主張という未発達な行いをしなければならない。

実際のところ、自分の価値を認めてしまえば、自己主張などいらない。する必要がない。

けれども、自分の未熟を偽装するために、自己主張をしなければならないのだ。

その背景にあるのが、「自分はまだ未成熟な若者」という仮面である。これはとても世間受けがいい。だから、ついついそれを用いて20年くらい過ごしてしまったような気がする。

謙遜は、とても便利な処世術である。謙遜することで、自分を守ることができる。

しかし、一方で、謙遜によって失うものは多い。

重ねるが、謙遜から脱するということは、自己主張するとか、自信満々に行動するということではない。それは、尊大である。

謙遜しないということは、尊大でもないということだ。謙遜しようとするから、尊大さも表面化してしまう。

謙遜しないということで、尊大さの呪縛からも逃れるのだ。

そうしたときに、今の自分のセルフ・イメージとして、60歳の河合隼雄がしっくりきたのである。そのたたずまいが、捉えやすかった。

先日のトークイベントで、河合俊雄さんがおっしゃっていた。河合隼雄は語らない人であったと。

僕はあくまで、語らぬ河合隼雄が60歳で語ったことをセルフ・イメージとして用いたいのである。それは、河合隼雄の60歳とは正確には違う。

それでも、このイメージは大事にしようと思った。


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