煙の匂い

「……そんでな、煙の匂いで目が覚めたんだ。おれは昔っから匂いに敏感でよ。そのおかげであの大火事で命拾いしたって寸法よ……ん? なんだ?」

休憩時間、よく晴れた日の午後、大工稼業の先輩と雑談していると、女性の悲鳴らしきものが聞こえた。

「ちょっと、ぼくみてきます」

工事現場を離れて一般道路まで出てみると、路肩に乗用車が停まっていた。乗用車は激しく揺れており、断続的に女性のうめき声が聞こえてきた。

ぼくはあわてて、先輩のところに戻って状況を報告した。

「……ははぁ、昼間っからお盛んなこったなぁ。そんなあわてるこっちゃあないだろうよ。まったく人間ってのは年中発情期だからなぁ。犬猫のほうがよっぽど分別があるぜ」

そんな様子ではなかった、と先輩に伝えたが、お前はうぶだねぇ、と相手にされなかった。

「まあ、さっきのホラー映画の悲鳴みてぇな声にゃあ驚いたがね。世の中にはもっと驚くようなことがいっぱいあるってなもんさ。たとえば若い連中がやってる……その、なんだっけ……ハロゲン? とかな。まったく理解できんぞ」

先輩はハロウィンの仮装のことを言ってるのだろう。まぁ、同世代のぼくだって共感しかねるくらいだから先輩が理解できないのも当然だろう。そういえば今朝、通勤途中で仮装している連中を何度かみかけた。朝っぱらからご苦労なことだ。

「……さぁて、そろそろ午後のお勤めだ。親方はどこだ?」

親方はいつもの木陰で休んでいると思います、と伝えると、おれが声かけてくるからお前は準備してろ、とのことだったので図面と道具箱を現場に広げていると、ぎゃあ、と先輩の悲鳴が聞こえた。

 あわてて駆けつけると、地面に転がった親方に見知らぬ男が覆いかぶさっていた。先輩の姿は見当たらない。

何の音だか、くちゃくちゃと耳障りな音がする。それにこの匂い……。なにかが腐っている匂いだ。一体、なんが起きている……? 疑問はすぐに解消された。音の正体は親方の腹部が見知らぬ男に咀嚼される音で、不快な匂いは見知らぬ男が発しているものだ。その男は腐っていた。

親方の腹部でくちゃくちゃやっているその男はふいに動きをとめた。そしてゆっくりと顔をあげて、こちらを見る。

その男は顔が半分腐り落ちていた。

 ぼくは腰を抜かしかけたが、すんでのところで踏みとどまって現場から逃げ出した。なんてことだ……。なんてことだ! 突然のことで頭の中は混濁していたが、とにかく遠くへいかなければ、という思いで走った。しかし、それほど距離が稼げないうちに、行き止まりとなる。信じがたい光景だった。目の前に集団のゾンビがひしめいている。おれは猛烈な勢いで工事現場の方角へUターンする。頭の中に路肩にとまっていた乗用車がよぎったのだ。そうだ! あれで脱出できれば……。工事現場の前まで戻ると、まだ乗用車はそこにあった。よかった。一も二もなく乗用車の窓をたたきまくる。おい! 大変だ! ドアをあけてくれ! 乗用車のドアが開かれる。そこには血まみれの女性の死体と、男性のゾンビがいた。


 乗用車をあとにして、再び駆け出したぼくは先輩のことを考えた。先輩はうまく逃げのびたのだろうか。たぶん、そうだろう。煙の匂いに気づいて大火事から脱出したように、いち早く匂いをかぎとって脱出したのだ。

目の前の交差点を曲がる。

でも、ぼくはだめだ。煙の匂いに気づくのが遅すぎたのだ。

大量のゾンビで目の前の道はふさがれている。

よく晴れた日の午後のことだった。

最後まで読んでくれてありがとー