美吉野橋の事

美吉野橋 (2023/3/5 西北方向から撮影)

美吉野橋は吉野川(紀の川)に架かる橋で奈良県吉野郡大淀町と吉野町を結んでいます。もともとは柳の渡しがあった場所で、ここは大峰修験道の靡き(行場)の北端(柳の宿)に位置しており、吉野山を経ての山上詣り(大峰山)の出発点で、また奥駈道を縦走する場合の順路では終着点にもなる場所です。
また、ここは伊勢街道筋でもあるため江戸時代にはそれなりの往来があった場所でもあって、江戸時代中期には石灯籠が作られ現在も残っています。

柳の渡しの石灯篭 (2023/3/5 撮影)

橋が架けられるまでの話

明治時代のはじめには廃仏毀釈運動もあって修験道も衰退したようですが、一方で様々な人の往来が自由に出来るようになり、また船や鉄道の発達によって遠くから訪れることが出来るようになってくると吉野山の桜を見ようという人も多く訪れるようになったようです。

明治中期には鉄道網が整備されるようになると、各地の名所旧跡を紹介する本が出されるようになりますが、そこに吉野山も登場します。もともと吉野山は大峯修験道や桜だけでなく西行法師(1118-1190)が庵を結んだ場所の一つであり、源義経(1159-1189)が追われて逃げ込んだ場所ですし、また元弘の乱(1331-1333)から南北朝時代(1336-1392)、太閤の花見(1594)など様々な歴史的な逸話もあって、江戸時代にも貝原益軒(1630-1714)や松尾芭蕉(1644-1694)、本居宣長(1730-1801)といった人物が訪れており、紹介されていたため全国的にも知名度の高い地域であった考えられます。また柳の渡しは、万葉集(奈良時代)にも詠まれています。

吉野山および山上詣りは現在のJR和歌山線(当時:南和鉄道 明治29年(1896)
に高田駅から現在の吉野口駅である葛駅まで開業。明治26年(1893)に現在の和歌山線・関西本線である大阪鉄道が開業しており、これによって大阪と鉄路で繋がった)が開通することで利便性が高まり多くの人が訪れるようになりますが、おそらく劇的に増えたのは大正元年(1912)に吉野鉄道が今の六田駅(当時:吉野駅)まで開通したことでしょう。
今の吉野口駅が最寄り駅とはいえ、吉野山まで距離にして14kmほどあり、また途中に車坂峠もあるため人力車、相当に時間が掛かったと考えられます。おそらく休みなく歩いて3時間程度はかかる距離で、普通であれば4時間程度だと思いますが、今の六田駅までやってくれば6kmほどで休みなく歩けば1時間半ほどで吉野山の中心地である金峯山寺まで行けます。なお、当時の吉野鉄道の時刻表では、今の吉野口駅から六田駅(旧:吉野駅)までは約30分程度ですから所要時間はそれまでの半分といったところでしょう。
また、奈良や大阪であれば鉄道を乗り継いで日帰りで吉野山見物も可能になったと考えられます。

奈良の今昔写真WEB 六田の渡し
仮設の橋。基本的な構造は同じだが毎年架けかえているためか
年代ごとの写真で微妙に違う。写真は北六田側から南を見ている。

それまでの吉野川は渇水期には仮設橋が架けられていたようですが、それ以外は渡し船で、安全に何時でも川を渡れるという状態ではありませんし、1度に渡れる人の数も限られたと思います。しかし、吉野鉄道の開業によって一度に多くの人が訪れるようになると、吉野川を安全に渡るということが問題になったと考えられます。

一方で、もともと奥吉野の物流経路であった下市では早くから、大規模な橋が架けられており、また近代的な鉄製の構造材を使った2代目の千石橋が明治25年(1892)に架けられていますから、その架橋実績もあってか、吉野鉄道の開通から7年後の大正8年(1919)に最初の美吉野橋が架橋されたようです。


奈良の今昔写真WEB 六田の渡し
大正8年(1919)に架橋された初代の美吉野橋
北六田側の東側から見ている。

橋名の漢字表記のゆれ

読みは「みよしの」ですが、戦前の書籍や写真を見ていると表記のゆれがあります。現在は「美吉野」で統一されていますが、それ以外には「三吉野」「三芳野」「美芳野」などが見ることができます。

初代美吉野橋について

大正8年(1919)に完成した初代の美吉野橋は、4つの柱脚と5つの橋桁からなるもので、いわゆる曲弦プラットトラス構造だと思います。構造は、おそらく下流の千石橋と同じで橋脚は石積み、橋桁は主要部材を鉄製として、ほかは木造だったのではないかと想像します。

奈良の今昔写真WEB 六田の渡し
初代 美吉野橋

一方で交通量は千石橋ほどではなかったでしょうから、上記の写真を見るに道幅は2間(約3.6m)もないように見えます。大正時代にはすでに乗合自動車もあったと思いますが、基本的には徒歩や人力車、荷車や馬車などが通行する橋だったと思われます。

現在の美吉野橋(2代目)について

現在の美吉野橋は昭和10年頃(1935)に架けられたようですが、これは初代の橋が架橋されて16年という期間です。現代の橋では半世紀以上経っても現役というものも少なくありませんが、戦前、特に昭和以前の橋は比較的短期間で架け替えられている事が多いので、それほど珍しい事ではないようです。また、もしかするとこの間に吉野川の洪水によって橋に何らかの被害を受けたために架替えになったのかもしれません。

なお、架替え前年の昭和9年(1934)9月21日には京阪神地方に甚大な被害をもたらした室戸台風が上陸しています。ただ、室戸台風は奈良県でも風による被害をもたらしていますが、雨はそれほど降らなかったので吉野川での被害は殆どなかったようなので、これが原因というわけではないと思います。いずれにしても吉野川は、年に1度はかなりの量の出水がある川ですから、橋に与える影響は少なからずあったと思います。

美吉野橋(2023/3/11)

現在の美吉野橋の構造は「5径間ゲルバーRCT桁橋」と呼ばれるもので、奈良県下では同様の形式のものとしては、吉野川上流の翁橋(吉野町国栖:3径間ゲルバーRCT桁橋 65m 1936年)と桜井市にある新佐野渡橋(桜井市慈恩寺:3径間ゲルバーRCT桁橋 60m 1938年)がありますが、全長150mの美吉野橋が最も長いもののようです。

現代ではゲルバー橋は架橋の選択される工法ではありませんが、1930年代頃には盛んに作られたようで、東京の両国橋(竣工年1932)や大阪の天満橋(竣工年1935)などが現在も現役で使われています。ただし、こちらはいずれも鋼製の橋桁です。

ゲルバー桁橋の構造

ゲルバー橋のメリットは、調べるに橋桁の厚みを抑えて径間、つまりは橋台・橋脚の間を長く取ることができる事で、また途中の接合点にヒンジを置くことにより橋台や橋脚にかかる支点沈下の影響を受けにくい、ということみたいです。一方で、デメリットは耐震性に難があったり、ヒンジ部分の負担が大きく破損しやすいようで、1990年代から全国にあるゲルバー橋の弱点部を補強する工事が行われるようになっており、美吉野橋もそのための改修工事が2000年代に入ってから行われています。

いずれにしても1930年代に盛んに採用された工法のようですが、美吉野橋は現存する奈良県下のゲルバー橋では最古です。また美吉野橋は吉野川に架かる橋としては近鉄吉野線の吉野川橋梁(昭和3年(1928))に次いで2番目に古い現役で使われている橋ということのようです。

2023年時点の美吉野橋

美吉野橋 南東から撮影(2023/3/11)
5径間ゲルバー桁橋の構造イラスト

橋台

南詰の橋台
北詰の橋台

美吉野橋の橋台部分は石積みで造られたものが使われています。おそらく、初代美吉野橋のものが再利用されたものと考えられます。橋台の位置からすると国道169号線は、川側に拡幅されていることがわかりますが、この拡幅がいつ頃行われたものかはわかりません。また橋台と橋桁の高さからすると初代美吉野橋は二代目美吉野橋より路面は低かったと思われます。

橋脚

橋脚
橋脚

美吉野橋の橋脚は橋桁を両サイドから包む形になっているのが特徴的です。他のゲルバー桁橋でも同様に橋桁を包み込む形の橋脚がありますが、美吉野橋ほど深く包み込んでいるのは少ないようです。このような構造としたのは左右方向に対して橋桁がずれないようにするためかもしれません。

また今の橋脚はコンクリートですが、初代美吉野橋と橋脚の数が同じで位置も変わっていないとすると、初代の石積みの橋脚にコンクリートを巻いて補強したものを使っている可能性がありますね。

橋桁

橋桁
橋桁

橋桁の掛け違い部(橋桁同士の接点)は凹凸構造になっていて単に橋桁を乗せただけでなく、凹凸を組み合わせることでずれないようになっていますね。ただし左右方向に対しては効果がありますが前後方向には効果がないので、現在は落橋対策としてボルトで接合されているようです。

ヒンジ部

ゲルバー桁橋の特徴である掛け違い部のヒンジ部分。この部分がゲルバー桁橋の弱点のようで、受け側が破損する傾向にあるようですが、美吉野橋はこの箇所を補修した跡もないようなので、それほどダメージを受けていないようです。このヒンジ部分は架橋したあとにメンテナンスすることは、ほぼ不可能に近いものですから、建設当時の鉄の棒が今も置かれていると思います。

橋桁

しかし、よく見ると矢板の型枠跡がくっきりと残った橋桁です。昭和30年代までのコンクリート建造物であればそれほど珍しいものではありませんが、このような型枠跡を見ると、どのように橋桁を製作していたのか、また、どのように橋脚に乗せたのか気になりますね。

赤枠で囲んだところが追加された部分。
南詰から

なお、現在の鋼管の欄干がある部分は後年に追加されたもので、おそらく2010年頃に行われた大規模な補修工事で付け加えられたものだと思います。(Googleのストリートビューを見ると2011年の時点で真新しい状態を見ることができます)。
それ以前の欄干もL字鋼材で作られた低いものでした。このため、現在と比べると欄干分だけ道が狭く、また橋そのものが高いので渡るのが怖かった記憶があります。

まとめ

今回、記事を書いたことで得られた成果としては

  • 現在の美吉野橋は2代目の橋。

  • 奈良県下で現役で使われているゲルバー桁橋としては最古。

  • 奈良県下の吉野川(紀の川)に架かっている現役の橋では近鉄吉野線の吉野川橋梁について2番目の古さ。

の3つですね。

以前、美吉野橋は吉野神宮の造営のために架けられたとも聞いたのですが、吉野神宮も現在の形になるまで紆余曲折があったため、必ずしも造営のために架けられたわけではなさそうです。それに2代目が架橋された昭和10年はすでに今の吉野駅まで鉄道が敷かれていたわけですから、どのような経緯で美吉野橋が近代的なコンクリート橋となったのかは、よくわかりません。ただ新たな橋を架けるよりも初代の橋を利用して架け変えた方が費用の面で良いということだったのかもしれませんね。

年表

大正元年(1912)  吉野鉄道 現在の六田駅(当時:吉野駅)まで開業
大正8年(1919) 初代・美吉野橋 架橋
昭和10年(1935) 二代目・美吉野橋 架橋
2010年代頃 補修工事が行われて現在の姿に至る

記事制作

2023/3/23 公開


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