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自立型自習に必要な「読んで理解する基礎的な力」②-教育のための科学研究所のRSTから学んだこと【Aflevering.153】

 前回の記事にて、私がこれまでに経験してきた学習方法を脱し、時代の変化に合わせて学習方法も変えていこうと思ったきっかけについて書かせていただきました。今回この記事では、高校の学校現場にいた時に実践したことや考えていたことをまとめておきたいと思います。

穴埋めプリントが子どもたちから奪っていたもの

 私は初め、穴埋めプリントに対して何の疑問も抱いていませんでした。教科書の内容を分かりやすくまとめ、板書の時間を省くことで効率よく学習が進められると思っていました。しかし、それがまさに本書で指摘されている「子どもたちが自力で理解する力」を奪っているのだとしたら、私は無意識に子どもたちの学習機会を奪っていたことになります。しかもプリントの作成するのにあんなに時間をかけたのに、と残念な気持ちになりました。

 確かに穴埋めプリントを作成、配布することは生徒からの評判もよくテストでも平均点60点を維持しやすいため、これは良い方法だと思っていました。しかし、それは教科書に書いてあることを自力でまとめて理解する機会を奪っていたと考えられます。それに気づいてから「穴埋めプリント」の作成はやめました。

 3年生の受験科目のみ、進度との関係があったため穴埋め形式ではなくレジュメ形式での講義をしました。生徒には穴埋めの学習をさせるのではなく、予習として授業前に教科書を読んできてもらい、授業で予習してきたことを個人作業やペアワークを通してまとめるという、「理解すること」を重視する活動をしました。その後、一部の生徒から「私は穴埋めプリントの方が勉強しやすいので、穴埋めプリントを配って欲しい」という要望がありましたが、試験の形式や学習方法の効果などを説明して納得してもらいました。

新しい学習方法の模索

 確かにずっと暗記で勉強をしてきた生徒にとってみれば、「理解する」というのは面倒な行為だと感じていたことでしょう。受験科目として担当した「政治・経済」においても、時代背景やこれまでの政治体制の流れを整理しながら説明をしたら、「結局どこを覚えれば良いんですか?」と聞かれたこともありました。また、私が勤めていた高校の授業で優先されていたのは、受験の範囲まで終われるかどうかであって、授業内での活動は疎かにされがちだったように思います。

 そのため、私はこの本に出会ってから、高校1年生の世界史の授業で、教科書の文章を読んでどのように理解できたのかを確認したり、そこから何を考えたのかを共有する授業を行いました。また、教科書や資料集だけの学びに収めるのではなく、時には図書室に行く時間を作って、気になったことを書籍や資料から情報を得るという経験をしてもらいました。そして、定期考査においても暗記ではなく、事前に生徒たちに出題形式や学び方について詳しく説明し、それらについてディスカッションをした上で、思考力や表現力を問う資料持込可の論述式の問題を試験的に導入しました。私が担当した1年生の生徒たちには、丁寧に理解することに時間をかけることで知識として定着しやすいということを体験してもらいたいと思っていました。

 その一方で、受験生の場合はどうしても時間の制約と学習方法の切り替えに戸惑う生徒が出てくることが予想されます。そのため、学んだことを自分の言葉で順序立てて説明する機会を授業の中で何度も与えました。自分の言葉で説明することは丸暗記ではできません。せめて、順序立てて体系的に理解していくことで知識として定着させる方が試験でも結果が残せることを体験して欲しかったのです。

読むことで価値観を広げられる

 かつて私は全く活字が頭に入ってきませんでした。社会人になり、自分があまりにも無知であることを自覚して読書を始めるようになってからは、少しはマシに読めるようになったと思っています。
 何か物事について深く考える時に、俯瞰して考えようと思うといろんな情報に触れる必要があります。その際に、読めないままだと自分の都合の良いように解釈してしまったり、そもそも書籍から情報を得ようとしなくなってしまいます。私もなるべく公平な目でいろんなものを見ようと思っているのですが、きっと無意識にそういった読み方をしている時があると思います。

 これについて、『AIに負けない子どもを育てる』(東洋経済、2019)に書かれていた文章がとても印象的でした。

「自分の分野の文章、特に自分が書いた文章だけは読みやすくて、それ以外は読みにくいと思うようです。そして、自分が書いた文章を誤読する人に対しては、読解力がないと嘲笑し、自分が読めない文章は読みにくい文章と非難する。これでは、議論は噛み合わない。」(『AIに負けない子どもを育てる』(東洋経済、2019)第6章より)

 「正しい完璧な情報」というものはおそらく存在しませんが、書き手はなるべく誤解が生まれないように書き、また、読み手も自分の先入観に囚われすぎず、客観的な視点で読もうとすることができれば、それが建設的な議論につながっていくのではないでしょうか。私も今そのトレーニングをしている最中です。
 私は、25歳から本格的に読書をするようになりました。最初は、新書を1冊読むのにとてつもない時間がかかっていました。しかし、意味を理解するように心がけながら丁寧に読んでいると、少しずつまともなスピードで読めるようになってきたのです。また、丁寧に内容を理解するように心がけて読むと、書かれていたことが頭に残りやすく、学習や仕事にも活かせると感じました。読むことの価値を、子どもたちにも知っておいてもらいたいと思っています。スピードや効率が求められる時代ではありますが、むしろ書かれていることを正確に読める力があれば試験でも結果を残せるはずです。

日本の一般入試は「読解力」か「暗記」か

 私が本書を読む中で理解した限りでは、先ほど引用した同じ第6章の中で「学習指導要領で定められた範囲から出題される入試問題は、教科書さえ読んで理解できていれば突破できるようになっているように設計されているが、読解ができないから暗記に走ってしまうのではないか」という仮説が述べられています。

 私が社会科の教員として大学の入試対策をした時の経験からすると、正誤判定に関しては教科書に書かれていることを正しく理解できているかどうかが求められます。ただ、日本の大学の一般入試の範囲があまりにも広いため、正誤判定や国公立で出題されるような論述に関してもたくさんの知識を覚えていないと問題は解けないようになっていると思います。その原因として、日本の社会科の入試の出題形式が、解釈ではなく事実を求められるため仕方がないのかもしれません。いくら読む力があって理解できるようになったとしても、今のところ大量の暗記は必要になると私は感じています。

 少し話は逸れますが、社会科においてより考える力を求めていくのであれば、IBで学ぶ「歴史」が参考になるのではないかと思います。IBDPで学ぶ「歴史」では、事実として理解しておかなければならないところももちろんありますが、暗記だけではなく細かい分析を求められたりするため、「考える力」を育むカリキュラムになっていると思います。ただ、教える側からするととんでもないレベルの考察力が求められることでしょう。
 とはいっても「言うは易し行うは難し」という言葉にあるように、限られた時間と予算で毎年大量の受験生の点数処理をすることを考えると、現実的にどこまでできるのかはかなり難しい問題になります。

 ただ、IBのカリキュラムを学んだ者としては、事実に基づいてどのような分析がなされたのかも含めて評価することができれば、歴史を学ぶことが難しくありながらも、その奥深さや楽しさも増えるのではないかと思います。新井氏の著書に書かれていることを活かすとしたら、正誤判定も含めて事実を正確に覚えているかを確認するだけなのであれば、AIの「キーワード検索機能」に負けてしまうことになります。日本の入試や教育に関する現実的な問題を一旦横において自分の理想を語るとしたら、今のところ人間にしか理解できない「意味」を最大限に活かして、分析や研究する価値を日本の学習の中でも求めていくのも魅力的だと思います。

<参考文献>
新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報、2018)
新井紀子『AIに負けない子どもを育てる』(東洋経済、2019)

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