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小学生が漢字テストの練習でカンニング?①子どもたちに伝えたいこと【367】

 先日、オランダ国外からオンラインで受講してくれている小学生のレッスンで起こった話と、私がそこで子どもに話したことや考えたことを記録しておきたいと思います。


補習校の宿題をサポートするオンラインレッスン?

 私はオランダのデン・ハーグで小学生の継承語としての日本語レッスン、中高生のインターナショナルスクールの理科・社会の日本語補助や日本語エッセイの添削などをしています。また、オンラインレッスンでは、日本に住んでいる中高生の受験サポート(主に社会科と面接・小論文)もしています。レッスンの特徴は、ティーチングとコーチングを組み合わせ、最終的には子どもが自立して学習に取り組めるようにするために、自己管理能力をつけるように心がけているところです。

 特に、小学校低学年の子どもたちへの日本語レッスンには、子ども中心に学習を組み立てるように配慮しています。子どもたちの教室での楽しみを維持しつつ、少しずつ日本語学習を注入していきます。

 この仕事を始めて約4年が経過し、少しずつオランダ国外や幅広いレッスンのご依頼も複数いただくようになりました。その中でも、最近では週末補習校の宿題サポートという依頼もいただくことがありました。
 私個人としては、週末の半日近く日本語の学習にも時間を費やし、さらに宿題をこなすためにレッスンの時間も捻出するのは少し心配になるところもあるのですが、少しでもその子に日本語学習を楽しいと感じてもらい、やがては自分で取り組めるようになるお手伝いができたらと思い、サポートをお受けすることにしています。

「テストのための練習」でカンニング?

 私が先日受け持ったオンライン個別レッスンで、「補習校の漢字テストのための勉強を一緒にやってほしい」という依頼をいただきました。
 授業では、漢字テストの勉強がどこまで進んでいるかをその子と確認し、「漢字の練習を一緒にするか、テストと同じように何も見ないで書くチャレンジをするか、どっちが良い?」と聞くと、
「テスト形式で練習したい」とその子から要望がありました。

 私は「それじゃあ、漢字が見えないように周りの物を片付けて、準備ができたら教えてね」と伝え、その後準備ができたということで一つずつ漢字の読み方を私が伝えて、本人が書いていくという形を取りました。

そもそも書き取りは難しい!

 私の経験上、小学3年生からの漢字は複雑な形のものが多いので、「書く」という観点でみると、継承語として学んでいる子にとっては「6割ぐらい(半分でも十分では?と思うぐらいです)自力で書けたらそれで十分」という感覚があります。もちろん、漢字が好きだったり、そういったものを覚えるのが得意な子はもっとできるかもしれません。ただ、大抵は漢字1文字を見てみても完璧に欠けているものはあまりなく、「大体のイメージは捉えられているな〜」というものが多いです。

モニターと紙以外に目線が向く

 話を元に戻して、その子は複雑な漢字を完璧に書いていたので、たくさん勉強したんだなと感心していました。初めから疑うわけではありませんが、海外で暮らしている子たちにとっては「半分もできないぐらいがむしろ普通だ」と思っている私にとっては、できすぎている方が違和感があります。
 よくよく観察してみると、どうやらその子の目線はモニターと漢字を書く紙以外の、こちらからは見ることができないところで往復しているのに気づきました。

「今机の上は全部片付けてあるよね?」と聞くと、
「はい、何もありませんよ。」と答えました。

 私自身もそれが本当かどうかはあまり気にしておらず、
「分からないところは分からないって言っていいからね。これはテストじゃないし、分からなかった漢字は一緒にどんな形かを見ればいいからね」
と声かけをしていたのですが、それがまずいと思ったのか、今度は膝と机の間に漢字ドリルをこそっと挟んだのが見えました。

「今漢字ドリルが見えたけど、膝の上に乗せてないかな?」
「何もありませんよ。白い紙があるだけです。」
「今先生から漢字ドリルが開いていたのが見えたよ。ここからだと見えないけど、何も見てないって信じていいよね?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ次、◯◯(漢字の読み方)」
「ここからは覚えていないのでわかりません」

 真相はわかりませんし、本当にカンニングをしていたのかどうかをオンラインで追求する必要もないと思いました。ただ、何も言わないわけにはいかないので、最初に私が伝えた、
「もう一回言うけど、今は練習する時間だから、分からない漢字があれば分からないって言ってくれたらいいからね。そしたら一緒に漢字の書き方を考えたらいいから。練習で誤魔化しても何の意味もないっていうことは分かる?」
「。。。漢字テストは80点取らないといけないので、ここまでできてたら大丈夫ですね!」

 私も経験則に頼りすぎずに、日頃から思い込みや決めつけでその子を判断しないように心がけています。また、分からないこと・間違うことは、自分の成長に必要なプロセスであり、それを隠さずオープンにできる学習の場が子どもたちの学力を高めると考えています。
 今回の件が私の勘違いであればそれで良いし、ただ細かい日本語のニュアンスが伝わらないため、メッセージとしてどこまで伝わっているかが不安なところがありますが、とにかく安心して学べる環境を作り、できないことがあってもそれをきちんと伝えられる雰囲気をこちらは持っておきたいという気持ちでした。

子どもの心は「プレッシャー」でいっぱいになっていないか

 カンニングの疑いというのは、それだけであれば「ただの勘違いだったのかも」と思い過ごすこともできます。ただ、別のケースにおいて、これまで「補習校の漢字テストの勉強を泣きながら取り組んでいる」「泣いて嫌がるのをなだめたり、お菓子やご褒美をあげながら何とか宿題を終わらせている」という話を耳にしていました。
 漢字テスト勉強のモチベーションは、「点数が取れないと留年」という外的な圧力によるものが多く、「本人にとって『なぜ学ぶのか』というところがはっきりとしていないままで取り組んでいるのが現状」と判断せざるを得ないような報告を何度か聞いたことがあったため、そういったことは十分に起こりうると感じました。
 そして、仮に子どもたちが抱えるテストへの恐怖から、「漢字テストの練習でここまで自分ができると見せければいけないこの子の心の状況はどうなっているんだろう」という不安が起こってきました。

 その子が今感じているプレッシャーを私が見ることはできませんが、練習の段階でも誤魔化さないといけない状況かあったかもしれないと考える場合、その子にとっては相当負担になっている状況にあります。
 カンニングを見つけた時に、その行為自体はいけないことだと伝えなければいけませんが、子どもの人格否定までしてしまうような発言をしてしまう保護者がいるそうです。そういったことが起きた時は、「なぜ子どもがそういう手段を取らないといけなかったのか」という背景まで考え、話を聞く必要があります。

 子どもたちは外からのプレッシャーに対して、強いストレスを感じ、なぜ自分がそれをしないといけないのかを理解できないまま、怒られたり失敗することを回避するためにそういう手段を取らざるを得ない状況だったと考えることができます。

「なぜ学ぶか」を問うよりも「80点以上取らないと君は失敗した人になる」という脅迫

 オンラインでもあり、まだその子も日本語で細かいニュアンスが伝わらないところもあるので、「分からないところは分からないって言っていいよ!分からないところは先生と一緒にじっくり漢字の形を見て、書き方を一緒に考えようね!」と言ってもその言葉はうまく届かず、「補習校では80点以上取らないと合格をもらえない」と言っていました。

 本人のインセンティブではなく、外部からの圧力を強めるとその子はある程度のスコアを残すようになるかもしれませんが、スコアよりも大切な内面的なものを失ってしまったのではないかと感じてしまいます。

「正々堂々」よりも「楽でスリリングな感覚」がクセにならないか

 さらに、カンニング行為等を一度行い、そういった経験からうまく行く経験をしてしまうと、なかなかまともに勉強することが難しくなることもあります。
 小学生などの場合、学ぶ意義を自分の中に落とし込むことができないまま過度なプレッシャーを与えてしまうと、自分が生き残る手段としてそういった行為に走ってしまう可能性があります。
 しかし、そういった不正行為は周囲の人たちの信頼を失うことにつながり、さらに癖になってしまうと、なぜそれがいけないことなのかを判断できない状態になってしまうのではないでしょうか。

 海外に暮らしていて日本語を学ぶというのは、そういった外からのプレッシャーや脅しで進めるようなものでは決してないと私は思います。結局は無理やりインプットしたものは大人になってもほとんど残らず、むしろ一度失うと取り戻すことが難しい「学習態度や自己を肯定する気持ち」をなくしたままになってしまいます。

継承語教育を問い直す必要性はないか

 私は継承語について専門的な研究者ではありません。学校教育に関わった経験とオランダに移住してから自身も継承語について学びながら、継承語として日本語を学ぶ子どもたちに接してきました。

子どもも対話に入って一緒に考える機会を作ってほしい

 もちろん家庭によっては、いずれ日本に帰国する予定があるから学年相応に学んでおいてほしいという親視点の理由もあるかもしれません。しかし、そういった状況を子どもが理解できるまでには、ある程度の年齢になるまで待たなければならないのです。

 そういうことが理解できるようになってきたら、きちんとこれからその子に起こる環境の変化について本人も含めて対話をするべきで、そのために本人が「どんなことからであれば始められるのか」を一緒に考えていく方が学習の効果は高いと思います。

地獄への道のりは善意で舗装される

 地獄という表現は大袈裟かもしれませんが、この有名な言葉にあるように、良かれと思って先回り、というのは子どもにとっては苦痛でしかないときがあります。そうなると保護者にとっての善行は全くの逆効果になります。
 子どもにとってはせっかくの成長の糧となる学習過程もただの「苦痛だった嫌な思い出」として残ってしまい、将来的な学習に悪い影響をもたらす可能性が高くなると私は感じます。

保護者も教える側も子どもたちのことを一生懸命考えています。だからこそ、時には子どもの気持ちを無視したような判断や行動をしてしまうことがあるかもしれませんが、今この瞬間を生きる子どもたちにできることはどんなことなのか、もう一度よく考えていろんな立場の人と対話し、考え直すべきだと思います。

過干渉でも放置でもない、「親子関係を深めるツール」としての学び

 これまで述べてきたことは、日本語の環境を一切なくす「放置」をすれば良いという意味ではありません。もし、子どもが日本語の勉強に苦しんでいるという状況が今現在ある場合、子どもの「内発的動機(自分からやってみようという気持ち)」を奪ってまで学ばせることのデメリットの大きさについて考えていただきたいと思います。

 「日本の小学校の学年通りには継承語の学習は進まない」という前提に立ち、子どもが見ている世界を中心に日本語学習が広がるようにする方が良いのではないかと思います。そして、子どもたちが自分で物事を考えられるようになった時に、「日本語をもっとやってみたい」と思えたり、「日本語で話すのが好き」「日本語を話すお友達と関わるのが楽しい」という土台をしっかり作った上でそこに上乗せするのが理想的な学習ではないでしょうか。

 親子のつながりが日本語になっていて、そこに楽しさや愛情が存在するのであれば、子どもたちは自然と日本語を吸収するはずです。例えば、日本語の本を一緒に読んだり、アニメやゲームをするだけで日本語のインプット、日本語に触れるきっかけにつながります。そこで語彙が増えたり、友達と関わる機会があればさらに日本語の学びにつながっていきます。

各家庭の日本語環境は千差万別です。日本への本帰国の有無、家庭内で日本語に触れる頻度、子どもの日本語への関心や日本語で遊ぶ友達の有無など、家庭によって状況はさまざまです。そのため、子どもたち一人ひとりの興味・関心にあったそれぞれのご家庭でできる継続的な日本語環境を考えて設定することが継承語教育の最善策だと思います。少しでも子どもたちが、自分を否定することなく、自分らしさを保ちながら学べるような環境が整うことを願っています。

 次回の記事で、私がこれまで読んできた書籍から、継承語や小学校段階での宿題がどれほど効果があるのか、本人の気持ちではなく周りからのプレッシャーなどで学ばせられれば効果があるのかについて書かれていたところがあったので、その辺りを参考にできる記事を書きたいと思います。

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