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Column #27 迎撃システムとマトリョーシカ

長引くコロナ、遠い国での戦争、自然災害(関東ではまたさっき地震があった)。なんでもない日でも心が騒ぐ。YouTubeをひらけば、何かと暴露をする人。それをただ面白がる人、猜疑心にかられて心がザワザワする人、自分の過去を今一度かえりみる人。

車は日々進化していて、安心や安全を呼びかける。首都圏の多くの駅にはホームドアが設置され、世の中全体もどんどんと住みやすくなっているはずだ。なのにここに来てどうも時代が逆行している気がするのは、なぜだろう。家の中にいるのに、壁も玄関もないみたいで、どこか安心していられない。

何か楽しいことで心を紛らわせたい。いや、純粋に楽しみたい。衣食住が足りても、心が足りなければ意味がない。そういうときこそ自分の役割なはずなのだが、年々音楽制作の仕事をより多くいただくようになり(非常にありがたいことではある)、自分から積極的にライブを組むことが最近は難しくなってきている。でも誘われたライブにはなるべく参加しているつもり。

できるだけ心静かに生きたい、トゲのないように、当たり障りのないようにしていたい、そんな人も、増えてきているように思う。粗相がほとんどなくいつでも平常運転、変わらない自分でいられる人は、どんなときもやっぱり強い。でもそんな人ってそもそもいるのかな。

例えばインターネット。会わなくても理解しあえる場面が増え、意思疎通に至るまでが早くなったが、本来受け取らなくても済むはずの過激な言葉との距離が、ますます近くなってしまった。見ざる、言わざる、聞かざるも大事。でもインターネットがあるから、このコラムも読んでもらえてる。愛おしいものと考えればどこまでも愛おしい。

ネットといえば、ロシア政府によるロシア国民への情報遮断を見て、インターネットにも国境があることを知った。VPNなどいろんな抜け道はあるらしいが、まだ一部の人しか使いこなせないし、広まれば結局は遮断されるだろう。

20世紀末を境にこの世界は滅びていくと、ときに人は妄想していたけど、そこじゃなくて、コロナが広まり始めた2020年だったのかもしれないな。でもそもそも地球自体滅びゆくものだし、何を以(もっ)て滅びるのかは、考え方次第。地表に草が1本生えていれば、まだ滅びていないのかもしれない。

2020年の東京オリンピックを言い当てた「AKIRA(漫画・アニメ)」でさえ、そこに広がっていたのは終末戦争を迎え入れたあとの2020年。ちなみに「AKIRA」は、初めて映画音楽って面白いと思った映画。

綻びのない世界などありえないのだし、かろうじて普通の生活を送れているだけで、ありがたいこと。しかしこうしている今も、巨大な破壊力を持ったミサイルがどこかから向かっているかもしれない。

そのきっかけは、ひとりの人間の究極のフラストレーション、そんなことが頭をよぎる。迫り来る極限の有事を知りながら、世界の安全と平和を語る「最期のスポークスマン」(Album "青木慶則" 参照)。彼は今日、すでに現れていたのかも。

もちろんそんなときは、すかさず迎撃システムが作動する。しかしロシアのミサイルには、その先端に別の小型ミサイルが付いているらしい。迎撃システムの囮(おとり)になるために。それも計算して迎撃ミサイルを2発発射するとする。しかしそのさらに先端にも、もうひとつの囮のミサイルが付いているとしたら? 

さらにその繰り返しで、迎撃ミサイルが同時に何発も発射され、増え続ける囮のミサイルの方は、形がどんどん小さくなっていく。......そうか、マトリョーシカの発想だったのか。さすがはロシア。

関心している場合じゃない。人と人のあいだにも迎撃ミサイルはある。トゲのある言葉を、トゲのある言葉で返す。そうなるとどうなる。喧嘩になる。夫婦なんかその繰り返し。無駄に自分の領地を広げようとした日には、こっぴどくやられる。安心と安全はどこにいった。