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Column #2 ニューヨーク・ジャズめぐり

初出掲載日 2019.02.10

今から17年ほど前、アメリカはミネソタ州の州都ミネアポリスへ3度に渡り、現地のミュージシャンと結成した「OCTOCUBE」のレコーディングに通っていた。その中で、1度だけニューヨークにも足を伸ばして、たった2日間だが滞在したことがある。ブルックリンに住む日本人のエンジニアの知人宅に泊めてもらい、マンハッタンを端から端まで歩いた。

奇しくもそれは2001年、そう、あのテロのちょうど半年前のことだ。それ以来、1度もあの街に降り立っていないことが、ずっと心残りだった。

ところで僕は今、何度目かのジャズの勉強中(何度目かの挫折ももうすぐ?)。少しでも自分の曲にエッセンスとして加えるために、自分なりに励んでいる。ニューヨークのジャズクラブで鳴り響く楽器の音、グラスや食器の音、少人数の拍手なんかを、数々の名盤から何度も耳にして来た。またニューヨークを訪れることが出来たら、ジャズを好きなだけ聴いて過ごしてみたかった。

そんな折り、マンハッタン郊外で暮らす英国人&日本人夫妻・マイケル&カナさんの多大なるご好意によって声をかけていただき、なんとこの1月、2週間ほど向こうに滞在することになった。

時系列をたどると、2017年のクリスマスイブにHARCO名義のラストライブを終え、新たなウェブサイトを大急ぎで立ち上げ、無事になんとか年を越し、1月5日の朝にはすでにジョン・F・ケネディ空港に降り立っていた。しかし、よりによってニューヨークは10年以上ぶりの大寒波。着いた時の気温はマイナス13度! 素手が外気に触れるとすぐに痛くなるほどで、これには参った。

後半の数日はマンハッタンのホテルに泊まったけれど、多くはニュージャージー州へシャトルバスで4~50分ほど走った街に滞在。そこにホームステイをさせてもらいながら日々を過ごした。ちょうど東京の都心と、僕が住んでいる川崎市くらいの距離なので、行動しやすかったとも言える。毎日、昼過ぎにマンハッタンの「ポートオーソリティバスターミナル(PABT)」という巨大な建物までバスで移動して、夜までジャズを聴いて深夜1時半発のバスで帰る、を繰り返した。

とにかく今回の旅の目的は、ジャズのライブをできる限りたくさん見ること。それ以外は、例えば平日の昼はおもに美術館めぐり。定番どころから郊外のコンテンポラリーな「Dia: Beacon」まであちこちを回った。さらにブロードウェイの昼の部、いわゆるマチネ公演も見た。でもどこか気はそぞろ。外が暗くなり始めて最初のジャズクラブに入ると、心がホッとするのである。やっぱり僕はエンターテインメントが好きで、夜に生きる人間なのだと実感する。

向かったのは、チケットが2万円近くするトップアーティストから、3ドルで入れるビリヤード場のライブまで、実に多種多様なタイプ&ランクの会場。移動はおもに地下鉄、そしてときどきウーバー(格安タクシー)。夕方からでも、16時の回・19時の回・22時の回・深夜のセッションと、無茶すれば1日4本は観れる。スタンダードや前衛、ラグタイム、ソウル系、それから僕のようなポップス寄りや、新しい潮流のジャズももちろん。早めに着けば最前列に向かう。一度はピアニストのすぐ横の、譜面をめくれそうな位置に座ることになり、そのピアニストをギョッとさせてしまった。

ちょうど「Winter Jazz Festival」というのも開催されていて、マラソン形式の通し券を買って、10カ所以上のクラブやアートスクールをハシゴ。ロンドンの今のジャズシーンも紹介されていたし、老舗のジャズクラブ「The Bitter End」や、大江千里さんも通っていた「New School」など、いろんな空間を味わうことができて、どれも楽しかった。

ほかには、ジャズピアニスト&作曲家&プロデューサー・宮嶋みぎわさんに現地でのお仕事の話を伺ったり、かつて武蔵野美術大学の芸術祭でコラボさせてもらった、ブルックリン在住のパペットアーティスト・菊地麻衣子さんのパフォーマンスも見に行けたり。

最後に数えてみたら30個くらいライブを見ていたから、印象に残っているのはたくさんあってキリがない。あえて挙げるならトロンボーン奏者のバンド Ryan Keberle & Catharsis が、ほかに比べるとややラフな演奏ではあったけど、それが逆にすごく良かったな。このときに歌っていたCamira Mezaという、チリ出身の女性シンガー&ギタリストの作品を、日本に帰ってきてよく聴いている。ポルトガル語と英語が織り交ざった最新アルバムは、どれもギミックに溢れていて、なおかつ心地良い。

旅の終盤に訪れた、「National September 11 Memorial & Museum」。同時多発テロで倒壊した2棟のワールドトレードセンタービルが建っていたエリアにあって、誰でも入館することができる。僕は2001.9.11のその日、3度目の訪米でミネアポリスにいて、それから1週間、アメリカ人の動揺をまさに目の当たりにしていた。今、ビルは跡形もないけれど、ふたつの正方形の巨大な池に成り代わっている。そのモニュメントのまわりに記された、犠牲者の方々の名前に手を触れる。

冒頭に書いたのは、1度目の訪米のとき。なまじちょっとだけ足を踏み入れて帰ってきてしまったニューヨーク。あの2001年春の2日間は、幻だったのではないかとずっと思って来た。しかも僕の見た「ニューヨーク」がああやって崩れ落ちてしまった。でもこの施設とモニュメントに触れることが出来て、そんなことはけしてないと思えた。顔を上げてみれば、人も街も寒波のなかで白い息を吐きながら、確固たる姿でそこに存在していたから。

ニット帽を深くかぶりながらマンハッタンの道を歩いているとき、急に19歳の頃の自分を思い出した。バンドのレコーディングや撮影などで一番忙しい時期だったにもかかわらず、「10代のうちに海外へ行きたい、ロンドンのナイトクラブの空気を感じたい」と思い立ち、強引にスケジュールを空けてもらって、ひとり飛び立った。それが初めての海外。そしてやはり昼はほとんど何もせず、夜になると足繁くライブハウスやクラブへ。思えば何をするにしても突発的で、危なっかしいやつだったなぁ。でも悲しいかな、今もほとんど変わらないのである。