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つれづれ:レポート三昧、すべてのはじめに「なぜあなたはそれをするのか?」という問いがある。

今年は、コロナやインフルエンザにはかからないのに交通事故や「手術や入院が必要な疾病」に相次いでかかったり、人に騙されて家が差し置さえられたりして散々な一年だったが、とりあえずすべてが収束した。

ゆえに「ああ、神様、来年はさらなる最低な年にならないように」と低いレベルの祈りをささげる年末である。

別段そんなことにもへこたれていないのは、とりあえずたのしいバイトが見つかり、大学も行きたい学科を選んで再入学でき、ながらく休んでいたテンペラ絵画の技術を指導してくださる先生もみつかったので作品が一点完成した。

不幸だとか、幸福だとか考えることの意味のなさを実感する。

目標を持つことは大切だ。不運に見舞われても、「できること」を探して達成していくとなんとか生き延びるメンタルを維持することができる。

さて、新入学生なので直近の目標はレポートの作成だ。

また初めからやりなおしなので第一題は「大学に入った目的、なにがしたいか」をまたもや問われている。

いろいろなプロジェクトにエントリーした時にも「ここではなにがしたいのか?」は必ず書かされるので、もうこの問いには何度も答えているのだが、実は問われるたびに異なることを考えてしまうのだ。

もちろん、何に対して「そう思うのか?」は異なるのは、対象が異なるので矛盾はないのだが、そうではなく「そもそもなんでそう思ったのか?」の原因までが変化していることに気づく。

よくよく考えてみると最終的には自分が知識や経験を求めていくことは、(好奇心もあるが)「無知であることの暴力性から解放されたい」のではないかと思ってしまった。

先日の哲学対話で「これまで生きていたうえで自分が相手と対等でないと感じた時」のこと話した。私は、話の相手から「かわいそう」と言われたことだと述べたら「それは、相手にあなたが”こういう人だ”と決めつけられたからですか?」と問われたことにはっとした。

相手から”決めつけられる”のはなによりも自分の手足が縛られたような不快感を覚えるのだ。そして、果ては不本意な期待を勝手に寄せられ、相手の幻想に添わないと「そんな人だと思わなかった」と悪意のこもった言葉を投げかけられることもしばしばだった。

すでに「そんな人だと思った」のは、自分の意志とは関係のないことなので西村博之の言葉を借りれば「それってあなたの感想ですよね?」と考えることで解決済みだが、しかし不快なことは間違いないし、そういう人とは関わらないようにしたい。
そして、この、決めつけや暴力的な言葉の背景には「無知」があることも経験した。

反転して自分が、より多くの事象を受け止め、加虐者にならないために知識は必要だ、というのは私の生きてきた上での実感だ。

私は殴られたら殴り返す主義だ。それは防御のためだが、そうしてみると善や悪とはどういう事だろうと考える。戦争が亡くならない理由もそんなところにあるのではないだろうか?

閻魔も邪悪なものや堕落したものを「地獄に落とす」と裁定する前に、なんでそんな人間になったのか考えてほしいものだ。

暴力の背景には無知やそれに伴う傲慢や怠惰があると考えている。しかし、世界は拡大してどんどん知らないことが増えていくことも確かだ。

全部はわからない、という前提を持っていることも必要だ。

いぜん演劇百貨店の柏木陽氏がワークショップのイントロダクションで言われた「どんなに経験を積んでも知識を得てもそれば常に全体の一部である」という言葉を忘れられない。もはや座右の銘である。

しかし、どうせ全部はわからないから何も学ばないという怠惰を私は選ばない。

だから勉強する。

自分の行動の原因はそんなことかもしれない、と年末に思う。

来年はまた違うことを考えているかもしれないが…。

※カバー画像はアレクサンドル・カバネル作「堕天使」





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