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雑多な雑感――NPOの戯言⑪

《たぶん普遍的なテーマ④》 謙虚さと傲慢さ
 わたしは謙虚さを壁画にしたような人間である。けっして自慢ではない。そもそも、自慢できるネタが無ければ自ずと謙虚さを装わざるを得ない。例えばわたしは暑がりで寒がりだが自慢できるものではない。通常、謙虚さとは人間の内面を他者から評されるものだが、わたしの場合、自認せざるを得ないのである。その意味でわたしの謙虚さは虚飾である(壁画と言うより落書きか)。その程度の物分かりの良さは持ち合わせている。
 さて、自慢できる人がいるとすれば、特段の業績・成果を残したとか、社会に貢献し周囲から尊敬される人間性を有していることであろう。そもそもそうした人は自慢などしないから謙虚さがより光輝を放つのだ。
 他方、傲慢というのは性格的欠陥を抱えつつもそれを自覚できない人物のことである。自己を字義通り「世界の中心」に据えたうえで、それを否定する者を許せないほど世界を見渡せない無知蒙昧の輩である。権力者に多い。裸の王様なら笑えるのだが、最上級の衣服をまとっていることが多いのだからヤッカイ極まりない。言い換えれば自信家――「わたしは賢い、優秀だ」オーラを出そうとしている人たち。名指しするには及ばない。周囲にも思い当たる人物がいるのでは?
 大学で学生時代を長く過ごし教師も経験してきたせいもあるだろうが、「先生」を鼻にかける人はわたしの周りにも散見された。大学というのは狭い世界であるがそれなりに社会の縮図という面を持ち合わせていて、傲慢な人も謙虚な人もいて人間関係にも複雑なものがある。面倒臭いのは「自分はダメだ」と謙虚さを示唆しつつ、それを否定してもらうために発言している場合。これが難しいのである。「ダメだ」という人に向かって「そうだね」と言うことはできない。「お前に言われる筋合いはない」と返される。かといって「そんなことないですよ」という自明の嘘をつくのも気が滅入る。周囲からの高い評価を確約してもらい自信を身にまといたい人もまた、小さな傲慢さの種を宿しているように思われる。

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