年の初めは脚下照顧から

脚下照顧(きゃつかしょうこ)
(自分の足元をよくよく見よという意。もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語)「脚下」は足元の意。転じて、本来の自分、自分自身。「照顧」は反省し、よく考える、また、よくよく見る

毎年恒例で新年にいろいろと目標を立てたりするのですが、結局振り返ったり、達成できたか否かなどのフォローの部分については殆ど放置状態になっていて、たどり着いたのが脚下照顧であります。

自分の様に、影響を受けやすい人間としては情報や選択肢が多くなるとそれぞれに魅力を感じてあれもいいこれもいいとなる訳ですが、外の部分に魅力や答えを求めていると、いつの間にか人生を翻弄される人も増えている。そんな狭間の中で他人はよく観察し見えているのに対して自分自身の内なる所を見つめる事が出来にくくなりつつあるわけであります。

昔から

「やりたいことが分からない」
だから「とにかく行動」「経験したことのないことは好きかどうかも判断できない」

ただ、「行動したけれど分からない」

特にここ数年は自分で自分を苦しめる事ばかりしていて、相手にとって良いと思う事でも自分で背負って抱えて、時間と健康を崩してしまうという。。

そのサイクルに突入すると次は外に対して答えを求めていくという流れになってしまい、すがりたくなる気持ちになりつつあるという流れなのでした。

昨年の学びが多い中でも、殆どが自分を知る、自分を見つめるという内容でそれが今の自分に必要なのだろうと。外に目を向けることはあっても内に目を向けるというのがすっぽり抜けていた状態だったなぁと。

脚下照顧は「自分」を気にかける=靴を揃える、心を整える→自分への「自信」

靴も、食べるもの、相手にかける言葉、部屋の掃除などなど

要は外ばかりに目を向けていると、鍵山先生の話は出来ても自分の部屋は汚い状態で、知識以上のものが無い状態が続いていたわけです。

昨年の行徳先生の言葉でも
紛れも無い私!私が鮮やかに生きてなければ人を鮮やかに授ける事は出来ない。

知識として知っているものと実践できているもの、その2つがあっても自分の中に確固たるものがなければどこまでも知識のレベルだなと。改めて年の初めの目標を決める時に根底を見つめなおす事と、根底の部分は自分でしか見つけれないものだからこそ、外の情報があってもぶれずに、ブラッシュアップし続けながら意識して脚下照顧の足元を見る。

多分、国家を語る前に自分と家族を見るところからを大切にしたいと!



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山本善武

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