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釈正輪老師講話会、5月7日「うつくしいいきかた」をテーマに開催

GW明けの5月7日開催になります。

前回日々是好日から、自殺と命の尊さについて語っていただいたのですが、早速、GW終了に伴ってのニュースに来るのが、こういうのが目にとまると、いろいろ考えさせられるところで

前例なき「令和10連休」直後の子供の自殺を防げ 専門家が警鐘
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190505-00000517-san-soci

GW明けに子供の自殺は急増 わが子を救うため親がすべきこと
https://www.news-postseven.com/archives/20190428_1363323.html

釈先生曰く、命を絶つ要因となってしまうのは環境の変化が大きい要因として挙げられ
その中で、友の大切さを言われており

自分という1個人が認めてもらえない時、憂鬱になり、ストレスを感じ、その先に命を絶つ
きれいごとで命は大事というのは誰でもわかっている。それでも頑張っていけない状況になる、周りの環境も存在している。

私が私が!となるのは人間だれしもそういう心を持っている弱い生き物である。みんな寂しい生き物である。だから友達となって認め合うのが自殺を止める1つのヒントになる。

頼る存在が少なくなっているとするならば、そんな今の日本の社会を作ってしまった大人の責任がある。

本来は誰しも自殺したいと思っている人はいなく 本当にアクションを起こすギリギリまでためらうものの、最後の瞬間は引き寄せられる様にアクションを起こしてしまう。
そうならない様になるためにも周りの存在が大切で、相談する(頼る)為の第一歩はまずは、相談にのってあげる環境を作ることから 親子関係、友達関係など。 昔の日本はみんなで頑張ろうという風土があった。 (家庭でも学校教育でも会社でも)
終身雇用と年功序列で仮に能力の低い方がいたとしても それを補う上司や社長がいて、適材適所と教育がなされていた=認めていた。 その職場がその人たちの一生(生活の場)であり、暗黙の了解として勤める会社で定年まで働くというのが浸透していたが

現在、核家族で地域、社会の変化がどんどん進む中 人間関係、お金、家庭など 悩みを抱えている人たちがたくさん溢れている所に ※相談する、悩みを打ち明ける。その相談や悩みを受け止める「人」「組織」「家庭」「学校」「社会」の存在が希薄になっている。

だからこそ、親子、学校、社会それぞれのあり方を改めて考え直すべき時に来ているのではないか。
それがないと誰かがいじめの対象になり そのいじめの対象は弱者に対して向かっていく。 それが子供だったとしたら、その子の将来はどうなるのか? 子供が攻撃されているならば、尊敬出来る親、先生など身近なところに常にストレスを抱えてしまうのではないか。 しっかりとその子の将来やその子が育って作る社会を考えて 大人が自覚を持って接する事が求められている。

特に、我が青森においてはいじめでの子供の自殺が多く、SNSの発達によりいい面悪い面での悪い面が出てくると、24時間常に攻撃対象になって、苦しんでいると。中学生の子を前にした時にもしもいじめられている子だったとしたら?を考えると、お釈迦様やキリストの話よりも寄り添う事がまず第1ではないかと思うところで、そこが友の大切さと許してもらいたければ許す心を持つことが実感できる気がします。

【尊い人間の命で、何をすべきなのか】
仏教では自殺は「悪」だとはいいません。「愚か」だと教えます。何故でしょうか。釈迦は、「人身受け難し」と説いています。人間に生まれることは滅多にないからこそ素晴らしいのだといわれたのです。しかしそう言われても、なかなか実感がわきません。人間に生まれることを喜ぶどころか、つらいことが続くと、「死んだほうがましだ」と思うことさえあるのではないでしょうか。

ある時釈迦が弟子の阿難に、「そなたは人間に生まれたことを、どのように思っているか」と尋ねました。阿難は、「はい、大変喜んでおります」と答えました。続けて釈迦は、「では、どれほど喜んでいるのか」と尋ねますと、阿難は答えることができませんでした。すると釈迦は、「例をもって教えよう」と言い、次のような話をしました。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない一匹の亀がいる。その亀は、百年な一度だけ、海底から浮かび上がってきて、海面に顔を出すのだ。海には一本の丸太ん棒が浮いている。その丸太ん棒の真ん中には、ちょうど亀の頭が入るくらいの小さな穴が開いている。丸太ん棒は、広い海の上を風に吹かれ、波に流されて漂っている。百年に一度、浮かび上がる目の見えない亀が、海面に頭を出した時に、丸太ん棒の穴に頭をすっぽり入れることがあると思うか」阿難は驚きながらもこのように言いました。

「尊師、そのようなことはとても考えられません」釈迦は言う。「絶対に無いと言い切れるか」「広い海に、一本しか浮いていない丸太ん棒の近くに、亀が浮かび上がることは滅多に無いと思います。仮にあったとしても、目が見えませんので、丸太ん棒の穴を目指して浮かび上がることもできないでしょう。

しかし、絶対に無いとは言い切れません。ひょっとしたら、何億年何兆年に一度、あるかもしれません。しかし、全くないといってもよいくらい、難しいことだと思います」釈迦は微笑され、このように諭しました。「その通りだ阿難。しかし、私たち人間に生まれることは、目の見えない亀が、百年に一度、海面に浮かび上がる時に、たまたま丸太ん棒の穴に頭を入れることよりも、さらに難しいことなのだよ」これが、経典に説かれています『盲亀浮木』の例えです。故事成語辞典や国語辞典にも「実現の可能性が、極めてまれであることの例え」として載っていますが、本来は、人間に生まれることが、如何に難しいかを教えた例えなのです。

「今、私が、人間に生まれることができた」ということは、一億円の宝くじが当たったことと比べてても、比較にならないほど大きな喜びがあって当たり前なのです。それほど貴重な命を得ながら、自ら捨てる(自殺)のは、とても愚かな行為だと教えているのです。自分の命は、このように尊く貴重なものだと分かれば、大切にしていこうという気持ちが強くなります。一度しかない人生を充実させたいと、生きる力がわいてきます。自分だけでなく、家族や周りの人の命の重さが分かってくると、相手を思いやり、優しく接することができるようになります。

釈迦は次に、「それほど貴重で尊い人間の命で、何をすべきなのか。どのようにしたら幸せになれるのか」を、生涯かけて教えたのです。
このように、全ての人にとって、大切なことを教えたのが「仏教」なのです。