どこにもいないうちへ

 誠実な人間が嫌いで。誠実な態度も腹が立ちます。こっちをまっすぐに見てくる曇りない瞳に腹が立つ。自分の欠点を克服できた誠実な視線は胸をかき乱します。卑屈。『卑屈』という便利な表現を知ってしまった私はもう元には戻れません。卑屈を否定してくる人間に敵意を抱く。たとえそれが自分自身であっても。そんなのは『自分』じゃない。自分の一部から切りはなして否定してやる。卑屈を認めない人格は俺の庭から出ていけ。ここは俺の庭だ。誰も入ってくるな。俺は卑屈だぞ。鈴木さんは身を乗り出す形で、両ひざに両肘をかけて「うん」と麻央の目をじっと見てうなずいた。
 麻央は時計を気にしていた。
「あわてなくていいよ」鈴木さんは微笑んだ。
 麻央は口の中がどんどんと乾いていくようだった。
「最近は」
「うん」
 最近は……いっしゅうかんぐらい、切ってません。
 微笑んだ鈴木さんは、麻央は、そういう彼女から不自然な感じを彼女は全然受けず、それが彼女は、彼女はすごいなと思って、息を吐いた。疲れました。
「うん」
「その」
「たくさん話せたね」
 はい、たくさん話して、うん、疲れた。麻央はソファに身を沈める。麻央は両手を腹の上で組んで目をつぶった。

 仕事から帰って、疲れたので、手首を切って、疲れて眠ったらしく、起きてみると、パジャマの裾とシーツが赤黒くなっていた。左手、傷口のひりひり痛みがしたから、麻央は、洗面台で石鹸を良くこすり込んで洗ってから、顔を拭いて、エタノールを振りかけてやると、じょばじょばと、白く泡立った。ぼんやりと眺めた。おととい買っておいたおにぎりを、レンジで温めて食べた。
 レジ打ちをしている間も左手がひりひりと痛んだので、麻央は三度ほど、お客様の商品を取り落としてしまいました。「申し訳ございません」と言った彼女の語尾が震えていないか気になった。レジにやってくる人々は皆、彼女の左手首をじろじろと見ているような(長袖を着てきたけど)、気にしないように彼女は笑顔を努めたけど、四度目に豆腐のパックを取り落としたとき丁度交代の時間になったので、そのお客様分の商品を打ち終えて、総菜パンを二つほど買った彼女は休憩室に入ったから、スマートフォンを取りだしたが、メッセージは入っていなかった。彼女の左腕はきっと赤くなって、こころなしか腫れているようで、もしかしたら雑菌が繁殖して臭いだしているかもしれず、痒くなるくらいはいいけど臭いのは困るなと思って、パンの包みを弄っていて、ドアの外を他の同僚だろうか、話しながら通り過ぎた。
 結局その後も二度、彼女は商品を落としたが、退勤の時には主任がこちらをじっと見ているような気がしてなりませんでした。家に帰ると傷が重ならないように、手首の方へ切っていったと思うけど、気づいたらまた朝になってて、カッターナイフは錆が付いてきているから古い刃を一枚折った彼女は、それで、今日の食事を買っておくのを忘れていたから、思い出しのだけれど、そのまま食事をとらずに仕事へ出かけたら、やっぱりいつもよりふらふらとするような気がした。主任に早退を申し出て、次の休憩時間になったときに帰った。
 翌日は休みなので、気づいたら夕方近くになっており、枕元には乾いた赤茶色いティッシュペーパーがいくつも、くしゃくしゃの山になっていて、ひどい頭痛がした彼女は水を飲もうと起き上がるとめまいがして、したたかに壁に頭を打った。
 意識しないで喉の奥の所からうめき声が漏れて、電波の届かないラジオノイズのようだなと思ったかもしれないけど、キッチンへ向かう途中の段差で足を踏み外しかけて、心臓の鼓動に合わせてズキズキとする頭で、水を飲んで横になったけど今度は眠れないし、よく見てみたら左腕の内側が真っ赤になってて、頭の痛みにシンクロしてどきどきと痛んでいるのはあたしの心臓じゃなくてこっち、腕の生傷の方で、枕に側頭部を押し付けて、目の前のうす暗いローテーブルをにらんだとき小さな青いランプが点滅していた、スマートフォンをつかんでメッセンジャーを立ちあげると一件だけ着信していて「なにしてる~」と瑠璃ちゃん。

 酒飲んで手首切った
 痛いさいあく

 いま、明日も休むことにしたから、これから瑠璃ちゃんとカラオケに行こって、あたし、最近切ってばっかだーとかいったら、あたしもあたしもーって、瑠璃ちゃんも、ね、歌いながら、麻央と瑠璃ちゃんとそれぞれのカッターナイフを持ってお互いの手首を切って、「共感共感」って、友達って大事だと思って、そう言ってあげようと思って、瑠璃ちゃんを見ると泣いていて、やだ泣いてんよ。って彼女が言うとまおちんもでしょぉと瑠璃ちゃんが言い、麻央はうぁははと口を大きく開いて瑠璃ちゃんの方を見るとぼんやりとしていて、瑠璃ちゃんはまおちんなみだすごい、泣き笑いだぁって涙を流しながら言って、二人でハグして、瑠璃ちゃんはまおちんの傷口をぺろぺろと舐めました。猫みたいになめてあげたから、麻央は、やだ瑠璃ちゃんくすぐったいよぉキャハハって笑ってソファへ倒れて、まおちんの血ぃおいしいねっと瑠璃ちゃんが言ってあげるとまおちんは恥ずかしそうにソファの隅に行って体育座りみたいなかっこで、瑠璃ちゃんの、ばかっていう。かわいい。瑠璃ちゃんはね、ね。瑠璃ちゃんのもぺろぺろして? って麻央の隣に座ってからだをくっつけてきたから、あたしは正直ちょっと嫌だったんだけどまあ恩義感じるっていうか? 瑠璃ちゃん良い子だしあたしはこんなだし、瑠璃ちゃんのおかげのあたしだしって思って麻央は瑠璃ちゃんの傷を今彼女が彼女にやったのを思い出しながら舌先で二、三回つついた、というか舐めたつもりだったんだけど結構ビビりだねあたし、でも瑠璃ちゃんはきゃーって顔を赤くして喜んでくれて、あたしはちょっとやっぱりうれしいと思った。
 瑠璃ちゃんはソファで顔を赤くして眠っていて、麻央は目を覚ますと、時計を見たらAM四時五十二分になっていたから瑠璃ちゃんを起したけどぐんにゃりとして、瑠璃ちゃんは思ったほどっていっても別に何も考えてないっていうか、考えるヨユウ? なんかないっていうか、たぶんまおちんが支えてくれて、そしたら明け方の国道はずいぶん静かで、遠くでカラスか何かの鳴き声だかの音が「カッ、カッ」と切れ切れにして、車がときどきざあっ、ざあっと走って、トラックは地鳴りをさせて行った。何だか頬も手もぴりぴりとしたまま手をつなぎながらおぼつかない様子で歩いた。等間隔に、オレンジの光を降ろしていて、日陰のひょろんとした花みたいなそのでっかい版みたいな街灯で、時折ざあっとヘッドランプが二人の背や顔にぶつかっては水が引くみたいにびりびりと散っていって、「さむい」と瑠璃ちゃんが喋った。麻央も「さむいね」と別に寒くなんか全然なかったんだけどオウム返しに喋って、瑠璃ちゃんはなんだか傷から血がしたたり落ちてくるような気がした。またどこかでカッカッカッと例のカラスだかの音が鳴いていたけど、辺りは段々と明るさを増してきていたのに、瑠璃ちゃんがつまづいたので麻央は手を引いた。
「あぶないよ」
「うわん」
 ほんとに瑠璃ちゃんはなんだかはっきりと「うわん」と喋って、それからとつぜん大粒の涙をどろどろと流した。ちょ、瑠璃ちゃん泣くなよーうわわ、うわん。
 うわん。
 うわん。
 二人してギャグマンガの登場人物みたいにぶわわわ、わんわんて実際にそんなこと言うはずは無かったんだけど言うんだからしかたないんだけど、泣いていたら歩道の隅に二人してしゃがんだとこまではよかったんだけど、突然ジャカジャカジャカジャカ! とパチンコ屋ど真ん中にぶち込まれたみたいな大音響して、テレビか何かで見たインドの仏壇のような、蛍光色の七色? 知らんもっとたくさん、ネオン街の盆栽みたいな光のこんもりとした山があって、ジャカジャカ音に混じって、ドッドッドッドッて重低音が響いているのに合わせて「はっ? はっ? はっ?」って声、それからよく聴くと明らかに舌打ちの音が混じっていて、麻央は、それは瑠璃ちゃんの声に似ていたけど、ネオン盆栽の中央に仏像みたく座っている瑠璃ちゃんは、半目を閉じて、いつもより盛ったまつ毛の下からも光が漏れていて、そこから次々と織姫さまみたいに髪を結ってひらひらした半透明の羽衣? 服着た瑠璃ちゃんがどんどん出てきたから、その天女になった瑠璃ちゃんも星クズみたいにきらきらと輝いてるもんだから辺り一面が光輝につつまれてて、そこに居るはずなんだけど、あたし? いやいや、ただ圧倒されてあと一瞬で真っ白になりそうな光の中でぼうっとつっ立っていたらしい。気がつくと瑠璃ちゃんは岩山のように巨大んなって、目の前に鎮座して、「はっ? はっ? はっ? はっ?」って声はもはや何も聞こえなくってそれはわたしの鼓膜が破れたのかもしれない。次々と私の周りに降りてくる天女の瑠璃ちゃんはアルカイックスマイルっていうの? 蕩けるような笑みを浮かべていて良くみたら全員両腕にはやっぱりびっしりと赤い横線が走っているから、なんだやっぱり瑠璃ちゃんじゃん。何で瑠璃ちゃんはこんなにいっぱいいるの? つらくない? って思ったら彼女たちはますます優しい顔でほほえんでいくような気がした。やっぱりつらいんだ。つらいよね? 涙でいっぱいにして、つらくないの、つらくないの。ママと仲直りした? もうユーチューブで血液のイラスト見せるのは止めようね。瑠璃ちゃんの言葉、瑠璃ちゃんの声、瑠璃ちゃんの腕、血。あたし瑠璃ちゃんのチャンネルは嫌いじゃないけどほんとは好きってわけじゃない、好き寄りの嫌い? っていうか、フツー寄りの普通? って麻央の、宙に浮いて巨きな瑠璃ちゃんの口元に向かってどんどんどんどん。あれっこれってなんだっけ? ああ、ネロとパトラッシュか。瑠璃ちゃんがパトラッシュで麻央がネロか。ラン、ランララランランラン。それは別の音楽か。瑠璃ちゃんのでっかい唇があんぐりと開いたら、ねえ瑠璃ちゃん。虫歯、右の犬歯がさ。抜けるよ? 歯医者行こっでもそのマンガみたいな虫歯がかわいいんだよね。ランランランランラララララン、って。
 気づいたら家に居て、麻央のベッドで瑠璃ちゃんは猫みたいに身体を丸くして寝ていたし隣で起き上がった麻央はのどがカラカラだったから転びそうになりながら冷蔵庫を開けて牛乳を飲んだ。時計を見ると九時半を回った所で、頭を上にして、立ち上がって、机までの数歩、床に置きっぱなしになってるチョコレートの空箱を踏みつぶして、(グシャ、あ、なんかおしっこもらしたみたいなかんじ。はは、紙箱がおしっこもらすかよって、)パソコン開いて、立ち上げて、ふんふんふんふふふふふふふーんって、別に機嫌良いわけじゃないよ。むしろサイアク。って、ブラウザ立ち上げたらすぐユーチューブ開いて、瑠璃ちゃんのチャンネルを見ると、あたしが知らなかった『激辛ごはんに挑戦!!??』というタイトルの動画が直近でアップロードされていて、それをクリックすると瑠璃ちゃんが彼女のピンク色の麻央はいつも「キッチュ」という文字列が頭に浮かんでくる部屋におなじように「キッチュ」なゴスロリの洋服で女の子座りしてニコニコしていて、手前のテーブルにはきっと納豆かなんかに付いていたからしの袋がどちゃっと置いてある横に漫画みたいな山盛りの白飯がどんぶりに盛ってあって中央にはなぜだか割りばしが垂直に突き立ててあった。
「これからぁ。このからしをぜえんぶ、ごはん、かけちゃいますぅ」リスカした後みたいな呂律で、そんなこというとそれから映像は早回しになって人間離れした動作で(当たり前か)瑠璃ちゃんがチャカチャカとからしの袋をちぎっては無造作にごはんにかけまくっていた。なんだか目が回るような気がして気分が悪くなった麻央は彼女が『激辛ごはん』だかに挑戦する前にブラウザを閉じて両手で目頭を押さえながら椅子の上でくるくると回った。
「何かおはなし、して」
 麻央は回転をとめた。しばらくしてベッドの中で瑠璃ちゃんが言いました。
「起きてたの」
「おはなしーぃ」
 瑠璃ちゃんはぴょんと両手を天井へ向けて張るようにベッドの中で伸びをしながら、うなるように顔の真ん中らへん、鼻の上あたり、にしわを寄せた。ふふーっ、何それ。その顔。野良猫みたいな表情。なんだよぅのら猫ってぇ。なんでもねーよ。牛乳、いる? 麻央が尋ねると瑠璃ちゃんは、ううん、おなかすいてなぁぃ。とまたねこみたいに体を丸めてしまって黙っていたけど、やっぱり飲もうかな……おみずのほうがいいってひとりごとなのかまおちんに言ったのかよくわかんない、でも、やっぱりおはなししてって、ぼそぼそと口元を動かした。麻央は、さっき見た夢の話でもしようかと思ったけど考えるのは何だか頭が重たくなる感じがして、ちょっと、やっぱ止めた。別に、何となく椅子をくるくると回転させながら「うーんとねえ」って、
「瑠璃ちゃんは、切ったばかりの傷口へ、ティッシュペーパーをそっと当てて、決してこすったり強く押しつけてはいけない、ゆっくりとはがす。すると赤い線の列がティッシュへじわっとにじんでいく。まるで水彩みたい、きれい。見るのが好きだ」って、
「彼女は、いつからか彼女の中にはもう一人の自分がいることだ。それは彼女は『うち』と彼女は名付けている。たいていの『うち』は彼女がストレスでいっぱいになっているときとか、すごく残忍な気分になって、目尻がカアーッと熱くなる。そういう時だった。『うち』は腕を表面を初めは爪でかきむしったからざくざくと、血の滲んだ、みみずばれが幾筋も重なった。そのうち『うち』はカッターやカミソリを使うようになった。『うち』のやり方は乱暴でめちゃくちゃで、処置もしないで行ってしまうから、気づいたときには床やベッドの上が血の海になっている。傷口もなかなか治らずに時には酷く膿んだり熱を出したりするし、だから瑠璃ちゃんはあるときから『うち』が来そうになったらあらかじめ、自分でリストカットをするようにした。そうすれば冷静になって、『うち』がやって来るのを防ぐことができたし、傷口も綺麗にできるから処理しやすい。『うち』は、口をきかなかったし性別もよくわからなかったが、残酷な奴で瑠璃ちゃんは『うち』が瑠璃ちゃんのことをを快く思っていないのは知っていたから、なるべく『うち』に体を渡さずに暮らしていくことに細心の注意を払ったし、ユーチューバーとしての活動もその一環だ。彼女はそのようにして、可能な限り『うち』を細切れにして、彼女の身体から遠ざけて、過ごそうと努めた」
 腫れぼったいりょう目から涙をぼろぼろとこぼれ落としながら、瑠璃ちゃん。その涙は天女になるのかな? って麻央は「瑠璃ちゃんなの?」って口を開いて。頭がくらんくらんからだんだんクレッシェンドでクワンクワンて次第にキーンって耳鳴りっつーか。やば。麻央はぐっと目を閉じてまぶたをこぶしでぎゅっと押さえつけた。

「私の父親は、家族に暴力をふるう人間でした。自分の母もなぐり、私の母もなぐり、私もなぐりました。また同時に、彼らを嘲って、精神的に抑圧を加えました。必然的に私は父を避けて、母と結託するしか無かったのですが、しかし母は弱い女性でした」
「私が幼い頃はヒステリーがひどくて、父に虐待されると、よく感情的に泣き叫んでいました。私をつれて、夜中に『別れる』と言って実家にかえることもよくあった。たいてい翌日には戻るのですが」
 麻央は手を組んだりほどいたりしながら呂律がうまく回らないといった途切れがちで、小さな声だった。
「うん」と鈴木さんが言った。麻央はみじかく天井を見上げて息を吐くと鈴木さんの身体に沿うみたいに視線を降ろしていった。
「私をつれないで、一人で車でとび出してしまうこともあった。こわかった。母がもう帰ってこないんじゃないかと思った。家族がバラバラになるんじゃないかと思った」
 麻央は、あたしは、なんでこんなことを話しているのか。カウンセリングだからか。鈴木さんがやさしいからか。耳をすませるとキーンという音が彼女の奥の方に小さく鳴っているのを麻央はみつけた。唇の端がわずかに震えていた。部屋の中は蛍光灯が明るい。今日は晴れているんだし、外の日差しだけでもいいんじゃないかと思ったけど、それはべつに言わない。
麻央は口ごもるようにしてもぐもぐとやった。
「また平日・休日にかかわらず、日がな一日無気力で寝てばかりおり、日中、父のいない間は、食事の準備や、来客の対応さえもろくにやらないことがほとんどでした。店の手伝いはもちろんです。そのくせ私が同じようにしていると私を怒り、なじるのです」
「そんな私と母を、父はよく、『母方の血は駄目だ。俺は血がつながってないから関係ない』と揶揄するのでした。これが大へん屈辱的でした」
どうしてそんなことするのと。
「どうしてそんなことするの、と母は幼い私をよく叱りました」
「どうしてそんなことするの」
「はい、きっと母は、自分が私のしたことであとから父に怒られるのが怖かったんだと思います。でもわたしは、どうしてそんなことするの、なんていわれても、じゃあどうしたらいいのか、正解なのか。全然わからなくて、ただただ怒る母が恐ろしかった」
「どうしたらいいのか、全然わからなかったんだね」
「父は当然私の味方ではなかった、というよりははっきりと言って敵、というか罰則そのものみたいなものでしたから、だから母が私を叱ってしまうと、その、でも強い母では全然なかったですけど、でも私が孤立してしまって、世界から敵視されたような気がして、すごく不安で、恐ろしくて、いや、恐ろしかったから」
「それはすごく不安だよね。誰も味方がいなくなってしまうんだから」
「どうしてそんなことするのって、その、なんていうか、ポピュラーな叱り方なんですかね? あー、ていうのは、このあいだ、駅で電車を待っていたら、ちょうど隣の親子が、それも母親が娘にだったんですけど、やっぱりなんか『どうしてそんなことするの!』って、何してたかわかんないですけど、怒鳴ってて、それで、あー、だからこの話もしたのかな」
「それで思いだしたんだね」
「うーんそうかもしれない。その時は急にイライラっとして、それを見て。でも何もしなかったですけど、その時は。でもすごく落ち込んで、用事っていうか、買い物に出かける所だったんですけど、なんだかうまくいかないっていうか、そのことばっかりで楽しめなくて、……結局家に戻ってからやっぱり、切っちゃって」
「ずーっとそのことが気になってたんだ?」
「あー、なんていうか、その、そのときは、いやほかのときもそうかもとおもうんだけど、自分を罰するっていうか。……ちがうかな。むしろ自分の中の母親を罰する? 追い出したいのかな。うるさいうるさい、だまれ、このろくでなし、みたいな。聴こえるんですよね。頭の中で。幻聴ってわけじゃないんだけど、そういう言葉が、だいたいたぶん父親の言葉なんだけど、母親とか。そういう言葉が頭んなかでわんわんして、すごく疲れちゃって。なんか切ればそれが血と一緒に出るかも? とか? あるいは言葉自体が、切り刻もうとしてるってことかな。なんだか」
「言葉自体を、切ることで切り刻もうとするの」
「そんな理屈っぽく考えて切るわけじゃない。だいたいもやもやっとして、わーっとして、切るけど、だから。後から、というか今ここでこうして、思い返せば、考えてみるとってことなんですが」
「良いと思うよ。あなたがそうやって切ることで、そういう、お父さんやお母さんの言葉は、どうなるんだろう?」
「どうなる……? 消える、いや、全然消えはしないです。むしろもしかしたら強まってるかもっていうか。さっきも言ったけど、やっぱ、自分を罰する、っていう気持ちも強くやっぱりあって、そういう時はむしろ、父親から殴られていた時の感覚にやっぱり近いのかもしれない。なんかそのふたつがまぜこぜになってるかんじ、かもしれない。自分を罰するのと、罰するのを、言葉をばらばらにしようとするのと。ごちゃごちゃになって、だからどんどんエスカレートして、切れば切るほどつらくなるんだけどでもやめられなくて、……だからこうして小林さんとか、喋れば何か変わるかなっていうか、だから来てますとも、言える」
「うん」
「切るかわりに」
「あなたがリストカットする代わりに、ね。ここで私に喋ることで整理しようとしている」
「はい」
「それはあなたが自分の意志で決めたことだね。」
「うーん、どうかな。べつにだれでも言われたわけじゃないけど、でも何となくっていうか、機会があったというか」
「でもあなたはじっさいにここへ来たし通えているよね。私にたくさん、お父さんのこととかお母さんのこととか話してくれている。それはあなたの強さだよ」
「ありがとうございます」
「もっと自分に誇りを持っていいんだよ」
「あー、でも切っちゃってますけどね。結局。バイトも休んだりするし」
彼女は頬のあたりをゆがめて笑うような表情をした。
「言葉で自分のことを表現しようとするのってすごくエネルギーのいることでしょ」
「まあ、はい」
「だから休みながらで良いんだし、それが当たり前だからね。立ち止まったり、振り返ったりすることを責めないで。そのまま受け入れてあげてください」
「はい」
「今日はこれくらいにしようか」
「はい、……ありがとうございます」
「おつかれさまでした」
 彼女は席を立った。身体じゅうがじっとりと汗ばんでいた。

 
 麻央は、帰るとあたしは瑠璃ちゃんが私の椅子に座っているのが見えた。
「おかえりーぃ」
 瑠璃ちゃんはにへら、というような、きみょうに歪んだかんじの笑顔を作って麻央をじろじろと眺めた。
「ただいま。何してたの」
「なにもぉ」
 瑠璃ちゃんは両腕を背もたれの後ろで組んで、脚を伸ばしてだんだんと浅く座っていった、ずり落ちそう。
「瑠璃ちゃんたいくつでぼけーとしてたぁ」
 椅子からすべり落ちそうになったところで脚をひっこめてすこし前かがみになって座りなおしながら、瑠璃ちゃんは腕を机の上に伸ばしてはしっこのカッターをつかんで引きよせた。
「それ、あたしの」
 うふふ、と瑠璃ちゃんは彼女の唇のすきまから息を漏らして両手でだいじにカッターを包み込んで持ったのだけど、チキチキチキとゆっくりと親指を上にスライドさせると錆びかけた刃が二、三センチせり出してきたのを麻央は見ていた。

「氷漬けにされたような」とか「ガラスの中に閉じ込められたような」とか。そういうきれいなたとえをよういして、いろいろと議論、議論でいいの? をしているおとなたちがいるけど。ううん、ただのおしゃべりだよね。
 けど、そんなにきれいなものじゃないよ。そんなにきらきらした、とうめいな、きれいなものじゃないよ。
 もっとつらくて、せまくて、くろくて、よごれていて、つめたいのはあってるけど、ざらざらしていて、ごつごつしていて、こわくて、きょぜつされて、にらまれて、くさくて、さわれなくて、からだがいたくて、したものどもからからで、あたまがぐわーんてして、すごくころしたくて、すごくかなしくて、すごくさみしくて、どきどきして、かゆくて、といれにいきたくて、たおれそうで、しにたくて、くるしくて、いきぐるしくて、ちいさくて、ちぢれてて、ちぢんでて、おさえつけられて、きられて、なぐられて、あつくて、おもくて、ちがでてて、ちのあじがして、ちのにおいがして、あさがこわくて、よるもこわくて、ねむるのもこわくて、なにもしないのもこわくて、なにかするたびにこわくて、さけんでて、おぼれてて、めがいたくて、みみもいたくて、わからなくて、よくわからなくて、どうすればいいの。
 そういうものだよ。ね、わからない。わからないよね? わたしも、みんななにをしっているのかわからない。わからなくて、こわいし、くるしいし、さびしいし。死にたくなるよ。死にたくなるほどわからないのがつらいよ?
 もっとふとうめいでめもみみもくちもはなもはだもなにもかもふさがれて、ゆさぶられてなぐられておおごえでさわがれて。
 わたしはここになんかいちゃいけないんだよ。なにもかんがえちゃいけないんだよ。
 わかるの?
 ううん。わからないんだ。

 瑠璃ちゃんはゆっくりとカッターの刃を横に引きました。
 たくさんにできたみみずばれのうえからまた、血がひとすじ、わき上がって流れて、床にしたたり落ち、
「お風呂場で口の中にカミソリの刃突っ込まれた」
 と瑠璃ちゃんは喋りました。
「それからパパは瑠璃ちゃんのほっぺをおもいっきりなぐりました」
 瑠璃ちゃんは喋っていた。
「すっごくいたかった。ぶえーって泣いてたら『泣くな』ってシャワーを瑠璃ちゃんにかけた」
 喋っていて、瑠璃ちゃんは、
「いきができなくて、瑠璃ちゃんはもう死ぬんだなとおもいました」
 別に麻央を見ているというのではなくて、少し上の、天井の隅の方をみて、
「きっとパパは瑠璃ちゃんができそこないだから瑠璃ちゃんに早く死んでほしいからこういうことをやってんのにこいつ全然死なねーじゃん、ふざけてんのかって、すごく怒っていることが瑠璃ちゃんはわかった。瑠璃ちゃんは、瑠璃ちゃんは早く死ねばもうパパ怒らないしいたくないしくるしくないからすぐ死にますようにっておいのりしたよ」
 思い出したみたいに麻央の顔を見た。
「なんで生きてるんだろう」
 外の、どこかの家の中でだれかがピアノの練習をしていると、麻央は思った。
「でももうパパはいないよ」
 麻央が口を開いた。舌が震えて「でも」を二回くり返したような喋りかただった。
「いるの! パパはいるの! 瑠璃ちゃんのところに」
瑠璃ちゃんはそう立ち上がって、カッターでと腕へ何本も切り込みを入れていった。どんどん血がにじんで床にこぼれた。麻央はティッシュが、机の上にあるけど、もう残りが少なかったっけ買ってくるの忘れてた。
 顔を上げて麻央を見た。目の焦点が合っていないと思った。カッターを落とした。
「うち」
 瑠璃ちゃんは「うん」といやに低くはっきりとした声を出すと、たぶん足元のカッターを拾いたくてかがんだ。麻央は身体を伸ばしてカッターを取った。瑠璃ちゃんは床に手をついた。フローリングにこぼれていた血がそれで瑠璃ちゃんの指でなじられると形が変わった。
「いま殺そうと思ったのに」声が非常にはっきりと麻央の耳に残った。
「もうパパはいないよ」
 麻央が叫んだ。
「何ならあたしが殺してきてあげよっか、瑠璃ちゃんのママも一緒に殺して」
 瑠璃ちゃんはひじょうに歪んだ皺だらけの顔で麻央をじっと見ていた。
「よこせ」
 瑠璃ちゃんは切り刻まれた方の腕をのばして手の平を麻央の目の前へつき出した。
「瑠璃ちゃん」麻央は先ほどよりも大きな声を出した。
 跳び出して、瑠璃ちゃんの体が麻央へ向かって崩れた。大きく乱れた呼吸音が聞こえてギシギシときしんだ。麻央はむしろ瑠璃ちゃんの身体を、瑠璃ちゃんが離れようともがくほど麻央は身体に力を入れていくようだった。毛布と、シーツと、肌とが擦れてチクチクとする。深く唸り声を上げていた。 ベッドから落ちた。瑠璃ちゃんは、麻央の身体にも血が付いた。
「パパはいない!」
 麻央は瑠璃ちゃんの耳のすぐそばに叫んだ。
「ママだって同じだ! あいつらは哀れな虫ケラだ! あたしたちは人間だ」
 瑠璃ちゃんの耳へ噛みつきそうなほどに近づけて、歯をむき出しにし、
「パパは死んだ! 瑠璃ちゃんを傷つけることなんかできない」
 と叫んだ。

 パパは死んだ!
 パパは死んだ!

 麻央は瑠璃ちゃんの耳元で叫び続けた。できることならば麻央は麻央が麻央をここで殺してしまいたいと思った。できることならば瑠璃ちゃんも瑠璃ちゃんをここで殺してほしい。瑠璃ちゃんには瑠璃ちゃんの約束された人生などないということを突き付けたかったし、麻央はそれは彼女自身も同じだと信じたい、信じたかったと彼女は叫んだ。
 瑠璃ちゃんが身体を動かすのをやめたから麻央も声を止めた。急に辺りが静かになってまるで無音のようだった。どこかの家でピアノの音が鳴らしている、小さく聞こえた。
 瑠璃ちゃんは青い顔をして歯を食いしばって固く目を閉じていた。

 麻央は、配達された封筒は、父からだった。中には一冊のよれた大学ノートと、便せんが一枚床へ落ちた。色あせた表紙には「創作ノート」と黒マジックで走り書きされていて、開くと、

 きもちはいく重にもち切れるとおく張りつめた空から時雨が流れるのは見えて

 と記されている。麻央はページをめくった。

 俺の知らない人が死ぬ。
 俺に無断で死ぬ。
 俺に無関心なまま死ぬ。
 俺の方も見ずに死ぬ。
 俺にあの親しい視線を投げかけてくれない。

 君は死ぬのに、
 君は死ぬのに俺がれんびんをはねつける。
 君は死ぬのに俺からは何も受け取らない。
 君は死ぬのに俺に助けを求めず命乞いをしないのはなぜだ。
 知らない人が知らない所で死ぬ。
 知らない人人の間で死ぬ。
 俺はそれを知っているのに。
 君は知らないふりをする。
 君は肉片になったって構わないというような表情で俺を見る。

 と書かれていた。麻央はページをめくった。めくってもめくっても白紙で、おしまいのページまで何も書かれていなかった。麻央は便せんを拾った。大ぶりな角ばった字が書かれていた。

  必要なものと思われたため、送ります。

  祝裡

 麻央は便せんをノートのはじめのページに挟むと、机に置いた。湯をわかして、インスタントコーヒーをいれた。椅子に座って、カップを机に置いた。コーヒーが一口、口の中を通って食道から胃へと流れ込むのを、体の、麻央は少し温まったらしくて、彼女は気にしていないがコーヒーに映る蛍光灯が流動とその波紋とでやや歪んで、すこし時間がかかる。彼女がカップを置くとわずかにふるえて、やがて凪いだ湖のようになるまで。麻央はカップを机に置いた。コーヒーの表面に、細かいちりのようなほこりが二つ浮かんでいるのが見えて、焦点がぼやけて、ノートを見た。さっきから吹いていた風が部屋の、麻央のアパートの周囲を取り囲んでいて、そのときようやく麻央は、雨が降っていることを知った。雨上がりのカエルの鳴き声かと思ったら祖母だった。祖母は肝臓が悪いので眠れない夜などは時々こうして身体を掻きむしることがあった。啓蟄を過ぎて春の低気圧は本州一帯にどしゃ降りの雨を降らせて、朝から降り始めた雨は真夜中の今になっても止む気配が無く朝方まで降り続く見込みだった。
 薄く淹れたインスタントコーヒーを飲みながら私は机に向かいノートを見つめていた。祖母は自分ではトイレに起きられないので少なくとも三時間に一度はこちらでオムツを換えてあげなければならない。彼女の身体はどこでも痒いようで私がオムツを換えようと手を伸ばすと振り払うように至る所を掻く。ついには私の腕すらも掻きむしり始めて私はなんだか、そうしているときは虫が這いまわっているような気持ちがいつもするのだった。加減することを知らない祖母は目いっぱいの力で掻くので私は週一度は爪を切ってあげる。皮膚を傷つけないように、深爪になるギリギリまで爪を切りつめてあげる。別にそんな事で感謝する祖母ではないが私が甘いコーヒーを淹れて差し出すと夕方の良く目が覚めている時なんかは「ほうほう」とニコニコしながらそれを受け取っては少しずつ飲んでくれるのがかわいいんだよね。

 アッアッアッ
 アッアッアッ

 替えの尿取りパットを広げて、布団を剥ぐ。猫のように丸まっているのが私の祖母だ。ズボンを下ろして、オムツを開く。よしよし、三回分くらいかな。入れてあった尿取りパットは温かく湿って膨らんでいて鼻を突く臭気が湿っぽい部屋の中に少し漂う。換えている最中でもオシッコは出て来るから手早く新しいパットを差し込んで、オムツを閉じた。ズボンを上げた。祖母は「あんあんあん」と手で私の腕を彼女の腹やふとももを掻きむしろうとしてくる。やんわりとそれを払いのけて布団を掛けなおしてあげると祖母は静かになった。部屋を出て、トイレの隅に設置してあるダストボックスへビニール袋に包んだ古いパットを捨てた。手を洗って、歯を磨いて。階段を上がると私は私の部屋のドアを開けて無造作にカーディガンを脱いでベッドに横になった。文字がもやもやと頭の中をめぐっていてしばらく眠れそうにない。額に腕を当てて、布団の中で身体を伸ばす。ばしゃばしゃとした音にのみこまれてしまえればきっとよく眠れる。
 麻央は、なぜ祝裡(ほうり)がノートを、こんな送りつけてきたのかわからない。ほとんど何も書いていないノートだ。彼は中を読んだのだろうか、麻央は、頭の奥が熱くなるような、苛立っていることに気づいて、布を強く握った。「必要なもの」とはどういう意味だろうか。麻央は、彼に何がわかるというのか。嗚咽をあげた。カッターを探るがあたしは見つからない。電気を点ければいいだろう。お前は本当にグズだな。
 麻央は目を開いた。部屋の中は薄暗くなっていた。カップの中には黒い影が溜まっていて、雨は降り続いていることがわかった。周囲は、なんだか落ち着かないもので満たされたように、かべも天井も流しもトイレの中も、ひっきりなしにざわざわとしていて、細かなところまでが目を配り、きき耳を立てていた。それ切りだった。麻央は体を起こした。机に向かって、ノートを三ページ分めくった。手探りでボールペンを探した。
 チン、と音がしてカップが机から落ちたらしい。暗がりの中でいっそう黒い液はフローリングの上にひろがった。

 アッアッアッ
 アッアッアッ

 祖母が鳴いているのが聞こえる。母のうんざりした表情が浮かぶ。父が「早く見て来い」と大きな声で呼ぶ。麻央は脱ぎ捨ててあったカーディガンか、なにか布の塊ををつかんで黒い染みに押しつけた。擦りつけた。
スイッチを入れると目がつぶれた。引き出しのカッターを取り出した机の上で切る。ノートの上に血が落ちた。少し腕を揺らすとさらに血がこぼれた。気づいたらにやにやとしてカッターの刃先に力を入れると血痕同士が重なって徐々に広がった。
「なにもたもたしているの」という母の声が窓の外から聞こえた。ガラスに向かってノートを投げつけると潰された蛾みたいにしばらくへばり付いていた。ノートの跡は赤黒い血の染みになっていた。腕を見るとたくさんのリストカット痕が見えたので、その染みに思い切り擦りつけた。ガラスが割れて、腕が血まみれになる。ねじ切れるように痛い。
「何やってんだ」
「何やってるの」
 父も母も怒鳴る。目の前を右往左往している。血まみれになった左腕を介抱しようとするがガラス片が複雑に刺さっていて触れることができない。激痛が走る。父も母もよく見えない。
「これだからお前は」
「お父さんはだまってて」
 部屋の奥の方へ去っていきながら二人で口論を始める。だんだんとエスカレートしていくようだ。耳をふさいで縮こまりたかったが、腕をかばっているために身動きができない。怒りと恐怖で顔が真っ赤になる。歯を使って、しんちょうにガラスを一本一本引きぬいていく。
 目を開ける。蛍光灯がこうこうと高速の明滅を繰り返していた。麻央は、痛みが走る、左腕は乾いた血で汚れていて、痛みのあまり腕を抱えた。
 麻央は、夜の中にこの部屋だけ取り残されたようだった。ガラスが周りに散らばっている気がした。自分の腕が自分の腕でないような、身体が身体でないような気がしてこわい。どんどんと遠く離れていってここだけがいやに明るい。麻央の身体の心臓がどきどきとしているのをあたしは感じた。こわくて死にそうだ。四方八方から気配がせり出してきてあたしを圧迫されて死ぬ。この左腕から腐ってあたしはきちがいになって死ぬんだ。
 麻央はさめざめと涙を流しました。こわくて、かなしくて涙がとまりませんでした。誰も助けに来てくれないのはよくわかっていますが、誰か助けに来てくれたとしてもあたしをたすけることはできない、あたしの死を助けることは無理だと麻央は泣いた。
「こわいよこわいよ」と言った。
 どんなに身体にしがみついてもそれは彼女のものではなくて、麻央は、あたしはなにからもどこからもひきはがされていくんだっておもう。枕に顔をうずめた。何も変化しなかった。蛍光灯の光が焼いてはまた新しくつくり上げて、がんじがらめにして息もできなくなるまで。指先が冷えている。麻央は彼女の腕をベッドの上の身体の先から伸ばして、スイッチを切った。
 母はうつむいていた。小さな声で喋っていた。泣いているのだろうかと麻央は思った。
 弱さも犯罪だと麻央は思った。弱さにより、逃げたこと、傍観しかしていなかったこと。言い訳めいた言葉によるごまかし。そういったものは、麻央はすべて、加担だった。こうした弱さの表明自体が、彼の強さと凶悪とを助長してきたのだと、麻央は思った。
「お母さんもつらかった」
 自分も、あるいは自分こそが被害者であることを主張するのは免罪符になると思っている。被害者は加害者に対して絶対的な立場にあると思っている。加害者が絶対的な悪で、被害者が善で。加害者と被害者は全く異なる、異質な存在であると信じて疑わない。
 虫ケラめ。と彼女は思ったと麻央は思った。
 毎日毎日、お父さんが帰ってくると機嫌悪くてね。お酒なんか飲んでいるととくにひどかった。お母さんなんかいつもぶたれたし、あんたはとなりで泣くしでね、おばあちゃんは文句を言うし。つらかったし何度も死んじゃおうかとおもったよ。でもね、あんたがいたから。あんたがいたからね。あたしがここにいて守っていなくちゃいけない、あんたをひとりにしちゃうのが一番つらいって、でもごめんね。お母さんが弱かったから。もっとあんたに母親らしいことしてあげたかったんだけど。
 わかってくれる?
「わかってくれるって?」
 ごめんね。わからないよね。お母さんが馬鹿だった。彼女は顔を覆った。泣いている振りをしているのだと麻央は思った。そしてそのうちほんとうに涙が出てくるのを知っていた。泣くフリをするのは悲しいからとかつらいからとかではなくて悲しくなりたいから、つらくなりたいからだった。
 なんで。
「なんで?」
 なんで話したの。私(たち)のこと。
「なんでって」
 秘密にしておくって(約束してたよね)。
「別に。言わないようにしてただけ」
 口答えするな。
「口答えって?」
 黙れ。口先だけで、ちっとも動かない。うるさい(うるさい)。なあ? 約束を破って平気でいる奴はクズだ。まともな人間のする事じゃない。
「まともな人間って何」
 まともはまともだ(当たり前だ)。屁理屈ばかり言う。お前さ、どうしてこんなに駄目なの?
「それはあんたの子だからだろ」
 親に向かってその口の利き方は何だ。もう一度言ってみろ(ほら、どうしたんだ。もう一度言ってみろよ)。
「脅迫するな」
 俺はもう一度言ってみろと言ったんだ。何だ脅迫とは、意味を分かっているのか。お前は馬鹿だ。いいか。ゼロだ。価値のないクズだ。俺はお前を今すぐここから追い出したっていいんだ。
「それはこっちの科白だ」
 どういう意味だ。親を何だと思ってるんだ。お前を養ったのは誰だと思ってる。
「私はお前のものじゃない」
 騒々しい、麻央は、声に合わせて不快な音が響いた。それが笑い声だと気づくまでに少し時間がかかったが、それでも耳元で虫がぶんぶんとうなるような不快な罵声をそれはずっと続けていたけど、もう何を言っているのかは(大体予想はつくけど)聞き取れなかったし、というよりもむしろ、聞き取るだけの気力なんか残っていない。麻央は目を開いた。目の前にはのっぺりとした暗闇があった。もしかしたら、麻央は目を開いていなかったのかもしれない。ずっと目を閉じていたのかも。耳の奥に余韻が残ってびりびりとして、身体は宙に浮いている気がした。もしかしたら死んだのだろうかと嘯く。死んだらいいのに。

 私は、角を右に曲がった。私は、道の先に自販機が煌煌としている、ちらちらと蛾がはためいている横を通過しながら、思った。
 私は、麻央や、瑠璃ちゃんや、鈴木さんも、父も、母も。祖母もだ。私は、それらのひとびとのなかにちりぢりになって、必死になって、声をかき集めて、汚れみたいに染みつけて、いままで必死に生きてきた。生きてきたんだ、必死に、私は。私は、わたしはわたしはっていうことによって、あたしでもいいけど、私をこうして保ってきた。というか私は、保ってこようとして失敗し続けてきた。それがいまの、私はこれだ。蛾がひらひらと、自動販売機とか、光に集まってひらひらって、私の目の端でちらつく。私はそんなみたいなものだ。
 私は、すーすーと、夜の空気のひだみたいなその中をかき分けて歩いていった。私の背後では、右側の、五十メートルくらいの離れた所で、やっぱり自動販売機が煌煌としているし、蛾はひらひらと舞い続けた。私は、次の交差点を通過して、さらに五十メートルくらい歩けば、アパートに着くのを知っているけれど、いま誰もいない私のへやの中は真っ暗で、それは私の中にも、あの背後で煌煌としている自動販売機の中にだって、その回りでちらついている蛾の中にだって、やはり似ている。真っくらな髄液の中に脳みそが浮かぶ様子を、私は想像しただろうか、と私は思った。麻央は、私は、瑠璃ちゃんは、私も、鈴木さんだって私が、みんな皆必死になってざわめいていて、まるでちいさな羽虫のあつまりみたいにうようよとして、まるでひとつの確固とした意志のようにふるまっているのがおかしかった。私は麻央だし、瑠璃ちゃんだし、鈴木さんでもあって、やっぱり父でもあって母でもあった。麻央の祖母ですらあっただろう。瑠璃ちゃんの母でもあったかもしれないし、私は、瑠璃ちゃんの父でもあった。私は、ぶんぶんぶん、ぶよぶよぶよ。わわわわ。どこに中心があるのかわからなくて、っていうかきっと中心なんかなくて、ただのあつまりがあるだけで私は、こうしたざわめきのなかでちりぢりになってかぎりなくかき消されていく。それでも私はあって、私であって、なぜか私でしかなくて、こうして自分のアパートまでのたった何十歩かのきょりをあるいている私は、羽虫のざわめきにも似ている。私は、私は、私は。私の中にあるいくつかの私。いくつもの私。それらが現れては消え、消えては現れし、私は、私であることが苦しくて、もはやどの私でいたらいいのかわからないよ。いやそういうんじゃなくて、私はいまどの私だっけ、私はその私とかあの私とかかの私とか、この私とか。とにかく私は。私でいることが、私のありようがつらくて、私は逃げてきた。逃げているんだけど私は、木が例えば自分自身から逃げるために必死になって空へと伸びていくみたいにして、例えばだけど、逃げ切れるものではない。それは瑠璃ちゃんだって、麻央だって、母だって、父だって、私は。私は同じで、私はうちゅうのちりくずになりたかったけど、しかし宇宙に行ったことも嗅いだこともないから、ただひたすら私の頭の中のうちゅうをこねくりまわしたうちゅうでしかないところでうちゅうという。私はアパートの玄関をくぐった。私の部屋の扉の前に立った。私の上で蛍光灯がブーンとうなりをたてていて、私の差し込んだ鍵は冷たい滑りをたてて鍵穴にねじ込まれ、ガチャリと響いた。握った取っ手をめぐる手の内側がじんじんとしびれるように、私はドアを開けて、暗闇の中へ滑り込まれていった。私はスイッチを点ける。私はバッグを降ろして、その時初めて気づいたのだけど私はスマートフォンをローテーブルの上に置きっぱなしにして出かけていて、着信を知らせる青いランプがぽつぽつと明滅をしていた。

 明日の死のわからぬ[ひと]のわれなれば今日の眠りをやすらかにねる

 瑠璃ちゃんからはただそうとだけ送られていて、麻央は、ただとめどなく涙をこぼしていた。続けるのがつらかった。瑠璃ちゃんは日常へ亀裂を入れていっていつかどこかへいってしまう。麻央は思った。私はどこへいくのだろう。麻央は思った。私はどこへいけばいいというのだろう。麻央は思ったが、それは瑠璃ちゃんが思っていたことでもあった。瑠璃ちゃんは切る代わりに黒い太マジックを手に取って、ひだりてのうち側の手首からひじの方へと、力を込めて線を引いた。シンナーくささが鼻腔を刺激した、そのとき書いたのだった。瑠璃ちゃんは、瑠璃ちゃんで、あたしはとめどなく涙を流していて、それ以外思い付かなかったけれど、それは麻央にとって必要なことだと、瑠璃ちゃんは思った。瑠璃ちゃんは両手で顔をおおった。鼻腔にたまった鼻水を手の平でおもい切りこすり上げて、流れてきた涙とそれは混ぜ合わさった。眠ろう。瑠璃ちゃんはおもったけど、ぜんぜん眠くはないのです。ただとめどなく涙が流れていた。しだいに嗚咽も混じって、ベッドにうずくまった彼女は吐くような格好で毛布に体液をこぼした。私は、それを見て、やっぱりどうしようもなく遠のく気分になっていき、しだいにしだいにかなしさがつのっていき、誰ともひとつになれないかなしみと恐怖で、私はこえにならない、口を大きく開けて、やはり涙を流した。私は私のさかいめに、犬がおしっこをするみたいに涙をひっかけて、よだれをたらして、はなみずをなすりつけていくのでした。私は決意すればするほど、私の輪郭がぼやけていって暗さとひとつになっていくようなのを感じた。私はとおくにいつか降る雨の音の耳に届いたように、ひそやかで、無垢で、無害だった。秘密が私を囲んでいた。私じしんが秘密そのものだった。そう決めたのは私だったけど、そうさせたのは、瑠璃ちゃんであり、麻央であり、お父さんであり、母だった。とり囲む、だれもがそれを知っていたけど、みんな声にせずに笑っている、風邪の時の悪夢みたいに、私は、影が大きくなり小さくなりひとりになり夥しくなりし、きっと私はそらから地面の底まで、たったひとりきりの切れ切れな私だった。
「大丈夫だよ。ここは安全だから」何度も何度も繰り返した。
「また余計なことをして」すかさず父が言った。
「あんたがやればいいでしょ」お母さんが言いました。
「いままでずっと我慢してきたんだね」
「そんなみっともない格好をして」
「可愛げの無い奴だな」
「あたしはもう死にたいよ」
「よく話してくれたね」
「にやにやするな」
「気色悪い」
「黙れ」
「つらかったんだね」
「一緒に死のうか」
「乞食みたいな奴だ」
「あんたがしっかりしてくれないから、あたしばっかりつらい」
「屑」
「調子に乗るな」
「人の気持ちも知らないで」
「自分のしたいようにしていいんだよ」
「大人振るな」
「出来損い」
「近寄るな」
「よく頑張ったね」
「自分で考えろ」
「助けて」
 うっすらとゆらめいて、始めは顔だ。顔からどろどろとしたうすくらがりがほとばしる。続いて全身へと、うすくらがりはひろがって、私は透明になってしまう。隣の居間では父と母とがまた言い争いをしている。父が母をなじる。嘲笑う。母は腐った死体のように膨らんで、ものも言わない、ただ異臭だけを放ち続ける。私は透明なうすくらがりとなって彼らの声を透き通す。私は部屋の冷気と一緒になって、やがて部屋そのものとなる。私は音を発しず、見開く目を持たず、臭わず、熱されず、湿りもしない。すき通った、彼らの声が遠ざかる。彼らの音は木々のざわめきよりももっと小さくなって、私は溶け、やがてそこは部屋、空気、音、それからうすくらがりだけになった。
 誰かが口から大きな音を鳴り出させている。何かが何かをぶつ音がする。何かが崩れて一瞬で大音響に膨れ上がった。さながら遠雷のように。何かが破裂するような音を響かせた。それに応じるように別の何かがやはり、同じ調子の音を鳴らした。重低音。合わせて床が、壁がわずかにゆれ、うすくらがりはややくらくなった。もしかしたら透明度を増した。やはり破裂するような音が鳴りやまず、重低音が断続的にひびく。うすくらがりがこまかくふるえる、ゆらぐ。部屋がだんだんと振動を大きくしていく。
 夕立のように、にわかにかき曇って、一気にふりそそいだ。ことばのくさりが、ひとつらなり、ひとつらなりが、うちつけて、くだけて、壁に跳ね返り、床に散らばっていく。うすくらがりのなかへ、かまわず堆積していく。ギーンギーンと、くさりのひと欠片ひと欠片ずつは、羽化したての蝉がうなるような大音響で、透き通って弱弱しいのに。影を散らして、散らすように、それは部屋の壁や、床のそれよりずっとはっきりとした、痛々しいくらいに、硬さをもって、影の内側に降り積もっていった。張り裂けるようなざわめき。じっさい部屋は崩落するのだ、振動がくさりを共鳴させて、天井が落ち、夜の光が流れこみ、あたりは闇とひかりのむら模様を描き出す。空気が動き、音がひろがって遠ざかっていく。わだかまった影は輪郭を結びはじめる。映像を逆再生するみたいにかたちが立ち現れてくる。わたしだ。まだ影は濃い。夜はずっと長いのだから影もずっと濃いままなのかもしれなかった。ここから東へ百メートルほどの所にある墓所では、外灯には蛾が群がっていて、周りの水田からは耳鳴りのような虫の音に混ざってときどき蛙の鳴き声がわっとどよめいた。やがてなにもかもが真っ暗で透き通っており、いつか暗くなって湿り気を含んだ夜風が流れるまで、夜は涼しく、ひそやかで、結局家の中へとだけ熱気がとどまってよどんでいて、暮らす人の右往左往するのだけがゆっくりと攪拌して、一緒に臭いや音とか、色あせかかったイメージまでもを内にめぐらせていた。でも、こうした内がわの営みと外の営みとはあまりにも質が違うために、例えば森から道路へ飛び出してくる狐とか、ムジナとかの足音ともいえないような足音とか、姿の見えないリスとか野ウサギとかは、誰にも所属していない言葉として、結局きみの言葉を決めるのはきみ自身であるように、なければならないように、見つかったとしても何とも気にしないような身体をして、素走っこく闇の中へと姿を隠してしまう。
 わたしは、けれど腹痛がするとか頭が重いとか、そういったぐどんなれんちゅうの一人として、老朽化した血のにおいを放って、幾重ものひだの下に身をこわばらせていまにも殴られやしないかとおびえている小さな、害だった。
 ここに居てはゆっくりと同化していく以外にすべはなくやがてわたしもよどみをかくはんするもののひとつとして肉を蓄え、腐らせて、老いていくのが嫌だった。境界は絶対的におもえ、わたしが幾ら外を愛おしんでもそれは馬鹿みたいな感傷以上にはけっしてならないことはわたしがいちばんよく知っている。だから私は瑠璃ちゃんと巡り会ったのだし、巡り会えてよかった。瑠璃ちゃんと出会わなければ麻央はきっと、この内側で、熱の籠ったよどみの中で身体を腐らせていただろうか、こうしているいまはきっと、東京の郊外のアパートの一室で暮らしているあたしとあたしの身体は、何ものにも属していないことをあたしとあたしの身体で、せいいっぱいだよ、だけど、表現しようとして、たとえば、それは、あの小さな墓の下に収められている祖母の骨だとか、知らないけど祖父のそれだとか、曾祖母とか曾祖父とか、知らないけど、周りに茂った雑草だとか、その周りを取り囲む田んぼだとか山だとか、山から降る冷気と霧に取り囲まれて、いる、あそこのちいさな群れのなかにいるあたしは、たとえば、瑠璃ちゃんの傷だらけの腕を文字どおり手がかりにして引っ張り上げてもらおうとしたあたしはあたしの言葉と決別して、あたしのからだ、内臓と決別して、この血を洗って誰かの血を替わりに入れて欲しいって、あたしの言葉でなく、声でもなくて、どっちかっていうとそのからだとか、血とか臭いとか、髪の毛の先っぽとかに近いけど、ううん違うな、すくなくともお父さんにもお母さんにも知られないし、つながってもいかなくていいような方法で、私は瑠璃ちゃんに伝えた。
 いま、カーテンの隙間からは街灯の光が差していた。何事も起きている気配は無かったが、ここに今誰かが立ったならば、何事かが起こったあとの余韻を感じたかもしれないが、あるいはこれから何かが起こる予兆かもそれは知れなかった。ものは乱雑にされていた。至る所に本や雑誌は積み重なっていたし、ベッドの上の毛布は無造作に丸められていた。ローテーブルの上では、スマートフォンのランプが一定の間隔をおいて青く明滅していた。かりに部屋の主が存在しなかったとしてもこれらはやがて、あるいは疾うに誰かによって結局もたらされている、いたであろう、特定の「言葉」を表現していた。机の隅に置かれているアラーム付き時計は文字盤に蛍光塗料が塗られていたが今は黒々として盤と数字との判別が付かず、ただ秒針のカチカチと規則的な音が(スマートフォンのランプのそれとは異なる速度で)部屋の中にかすかに響いていた。秒針と青いランプとは時々同期して、まるでランプに合わせて音が響いているかのようなあるいは、音に合わせてランプが明滅しているかのような一瞬が定期的にもたらされた。示された言葉は空洞だともいえた。空洞があるともいえた。空洞か、間隙か、亀裂か、何という言葉が適切かは分からないが、それは未知というよりは、それは決して知られることが無いように、そういうこととして、誰かが自分で自分を表現をしようとした時から、もっと遡って、誰かが私として生きはじめたときから、それはあった。余韻は、それがある特定の感情を示してはいないと言えばうそになるかもしれない、しかしそれははっきりと名指せる感情――たとえば「悲しみ」とか「恐怖」とか「不安」とか――では全然なく、ただ何となくと、認知しにくいがあるという感触がただある、そのようなあり方で、それそのものへの認知に対しても、そうした性質は共通していた。ただ、あることだけが、わかる。空洞。あるいはその間隙は問いかけてくるのだった。それは世界の始原の問いかけに近いものだった。神はあるか? そうした問いに、それは近いものだった。誰かがあり得ることへの。根源的な懐疑。不在から、誰かがもたらされることの、その時の揺らぎ、振動を不断に確かめてくるそれは、やはり始原的な問いなのではないだろうか? 始原的な問いであるからこそ不断にそれは問うてくるのだった。しかしそれは、その始原の、不断の、問いとは、おかしな言い方だが、ある気分に関わらず、ある。存在するものだ。だからそれは、その問いかけは、誰かが彼の認知でその空洞を確かめるのと同じようなあいまいさ、多義性で、その問いかけの言葉をも同じく、ただ確かめていればよく、そのとき彼は不毛だった。未明で、夜明け前の一瞬が永遠に凍った様で、それに近いものであることを、その問いかけはただ伝達している。
 私はである。それは確かなことではない。その空洞は埋められないし、埋めなくてよいのだ。昔わたしは、次のような詩を、書いたことがあった。中学生の、ちょうど思春期にはいったばかりの頃だ。

 少女は隻翼であった。生まれつきなのか、それとも事故か何かで失ったのか僕には分からない。
 ただ、初めて出会ったときから彼女は既に隻翼だったのだ。

 彼女はめったに翼を広げなかった。
 そのせいもあってか、翼を広げたときのその不安定なシルエットは僕を不安な気持ちにさせた。
 しかしそんな僕の心とは裏腹に、彼女は何時だって屈託のない笑顔で楽しそうに跳び回っていたりするのだった。

 彼女はまた、よく空を見ていた。
 時にはほとんど1日中、まるで他の記憶は一切失ってしまったとでもいうように、
 地べたと背中との間に羽を窮屈そうに折りたたんで、見上げていた。
 それは朝焼けの東雲色に染まる空のときもあったし、日中の青空や、星が散りばめる夜空のときもあった。
 そして曇りの日さえも彼女は見上げているのだった。

 あるとき、そんなに空が恋しいのかいと尋ねてみた事があった。
 けれど彼女はいつもの笑顔で、どうして私が空を恋しがるのと言ったきりだった。

 ごく最近になって、彼女は初めからあの姿が自然体だったのだと思うようになった。
 全ては僕の勝手な思い込みが、彼女に対する誤解を助長していたのかもしれない。

 この瞬間も、空は変化を続けている。

 私は欠落にこだわっていた。欠落や不均衡に生理的な魅力を感じていた。それは私の家庭が、認知がいびつであったからだろうか。そうかもしれない。それだけではないかもしれない。それがこの空洞を呼び寄せたのか、私が私であることの問いを、その声を、呼び寄せたのか、決定的なことは言えない。わからない。しかし、私はいびつな、いびつに、私ではなく。しかし同時に私である。そのこと自体がいびつさのひとつの根拠であるかもしれない。
 しかし詩が示すように。初めからあの姿が自然体だったのだとしたら。歪さは無い。歪とは、世界の側から見た私たちへの意見、警戒の唸り声だ。私は、世界にとって、警戒に値するという、それは賛美、差別だった。
 私に付いて回る空洞と声とは、しかしそれはきっと私の中に由来するものではなくて、例えば木漏れ日の中を歩くと幾つもの斑に突き当たるように、それは世界の古い古い属性なのだと言えないだろうか。
 この瞬間も、私は目まぐるしく変化を続けていて、それを感じ取れるスピードを、しかしこの私は持ち合わせていないから、それは直感的な言い方になってしまうが、私が私であると言うことの保証になっていて、私が私であるということと世界との、接続になっていて、この私は、私と世界とのだいたい中間項として、この茫漠とした、多義的な処に、輝揺(かがよ)う、ひどく薄い気配だった。

 アパートを出て、二人は道を南へ向かって歩き始めた。小さな商店街を通り過ぎて駅前に出ると、コンビニの真横を通って百円ショップに一べつもくれず、どんどんと進んでいった。目の前に小さな踏切があって、道路に対して線路が斜めに走っていた。
「ここは雨が降ると自転車に乗った人がよく滑るよ」
「ふうん」
「てゆうかあたしなんだけどね」
「うっそ」
 二人は笑いながら踏切を横断して、なおも歩き続けた。五百メートルほどゆくと大通りに突き当たり、左右から車が切れ目なく走っていた。二人は右に曲がった。日差しが強かった。
「あついね」
「あついね」
 二人とも一人は長袖を着て、もう一人はアームカバーを付けていたが、特に日除けになるものは他に何も持っていなかった。財布も持たずに出ていたことに、二人は気づいた。
「日焼け止め塗ってくればよかった」
「うん」
「せめてお茶買うお金くらいあれば」
「うん」
 歩き続けるとまた別のコンビニの、青い看板が見えてきた。暑すぎるし入ることにしようという話になって、二人並んでガラス戸をくぐった。今時自動ドアではなかった。女性の、二人より一回り程年上くらいに見える化粧気のない女性が一人、商品の陳列をしていて、他に店内にはとび職の恰好をした男が一人、雑誌を立ち読みしているのが二人には見えた。彼から少し離れた位置に立った二人はそれぞれ同じ漫画雑誌を手に取ってぱらぱらとめくった。
 二人が店を出るときには定員は相変わらず不愛想な様子で陳列を続けていて、小さな声でたぶん「ありがとうございました」と言ったのだろうが、二人は特に気にしない様子で歩道へ戻って歩いた。
「ねえあの店員のおばさん」
「ん?」
「切ってあったね。腕」
「え? まじ」
「まじまじ。ざーって、うでのうちがわに、あとあったよ」
「うそぜんぜんきづかんかった」
「けっこう深かった」
「バッカじゃないのアームカバーしろよ」
 片方が荒々しい口調で声を上げたが、もう一人は特にこれといった反応は返さず、道の先の方を見ていた。かげろうがゆらゆらと立ち上っており、まるで世界が動揺しているかのような印象を与えた。
 横断歩道を渡って、住宅と寺とに挟まれた細い道へ入っていった。寺の敷地からは大きな木が立ち上がっていて、道の所々に陰が落ちている。雀の鳴き声が聞こえた。
「これどこいくの」
「ん、あたしの大学」
「えーまじか」
「うん」
「人多いとこやだ」
「あんまいないよ」
「やだ」
「近くに公園あるし」
「そこがいい。涼しい?」
「木がたくさんあるよ。ベンチとかも」
「あつくてとけそうだ~」
 やがて右手にコンクリートでできた厳めしい大学の門が見えて、二人はそこを通り過ぎてさらに歩いた。「大学正門前」と表示されたバスが前からやって来、二人を通過して門の前で止まった。ほとんど人は降りてこないようだった。
 道の先は丁字路になっていて、突き当りが公園なのだった。中へ入ると周り中で二人の頭の上から蝉の鳴き声がして、二人とも少し動揺した様子だった。並んでベンチに腰を下ろした。
「むかしゲームブックってあったじゃん」
「うん」
「あたしあれすっごい大好きだったんだけどさ」
「うん」
 公園の奥手は雑木林で、小川が流れており、それに沿う形で遊歩道が雑木林の中を整備されていた。昔映画の撮影でも使われたというその道は、狭くて舗装されておらず所々木の根が隆起していて歩きにくいものだったが、繁茂した木がトンネルのようになって涼しく、静かだという事で近所の人の散歩道とか、学生たちの通学路に使われていて、その道を抜けた風が二人の座るベンチまで届いていた。
「ゲームブック読むのってさ、読書と違うじゃん」
「涼しいね」
「うん。やっぱりジュース代くらい持ってくればよかった」
 二人の内片方は足元を見ていて、もう一人は頭上の葉がゆっくりと揺れる様子を見ていた。
「読書と違うじゃん」
「なにが」
「ゲームブック」
「げーむぶっく」
「なんていうかRPGやるみたいなやつでしょ。迷路みたいな。なんかあたしあれって、あの感覚って、なんだろうなってずっとおもってて」
「げえむ、ぶっく……」
「そしたらこの間気づいたんだけど、夢の感じがね、似てる」
「ゲームブックって何」
「ゲームブックってのは、本だよ。こう、ちょっと分厚くて、読んでいくとクイズとか選択肢とかが出て来て、『○○だと思ったら、なんとかページ、××だと思ったら、別のページ』って、指示されてさ。本から、読む人が」
 そこで喋っていた方は軽く笑った。もう一人は相変わらず足元の土を、つま先でいじっていた。
「変だよね。本からも命令されるんだよ。それでゴールっていうかおしまいのページまで読み終えられるかっていうやつ。ゲームオーバーもあって。知らない? 小さいころやらなかった?」
「しらない」
「明晰夢だ」
「ん」
「明晰夢ってのは、自分で自分をコントロールできるやつ。夢なんだけど『これは夢だ』って知ってて」
「このアリさんおっきい」
「あたしこの頃明晰夢たまに見るんだ」
「アリのゆうれいっているのかな」
「現実で自分をコントロールできたことなんかないのにね。笑っちゃうよ」
 一人すっと立ってベンチの前の空間をゆっくりと回るように歩き始めた。もう一人はそれを見ていた。蝉時雨がわわわわと降り続いていて、ベンチの正面には二人が歩いてきた道が午後の日差しで白く光っていてかすかにゆらゆらと揺れていた。その遠くの方の住宅と住宅との間を猫か何かがちらと横切ったが、一人はぐるぐると歩いていてもう一人はそれを眺めていて、どちらも見てはいなかった。「帰ろうか」と座っていた一人が立ち上がったが、もう一人は周回を続けていた。
「子ども電話相談に相談しようかな」
「何を」
「アリのゆうれい。いますかって」
「アリの幽霊?」
「瑠璃ちゃん、いま、おっきなアリさんいて、殺したんだけど、いるかな」
「幽霊が?」
「そう。瑠璃ちゃんのゆうれいは、います。まおちんのゆうれいも、います。にんげんのゆうれいはいるよ。にんげんはかなしくて、きずつくとにくむからね。でも、アリはいるかな」
「憎む憎まないっていうかタマシイがあればいるんじゃないの。ユウレイ」
「へんなの」
 わたしとアリとは何が違うのだろうと二人は思っていた。一人はベンチに座り直し、もう一人はまだぐるぐると歩いていた。座って、足元に潰れた蟻の死骸を探したが、見つからなかった。
「どっちも生きてるからさ。生きてるならいるでしょ。あたしたちが知らなくてもさ」
 急に足を止めてベンチの一人の方を見た。
「知らないところにいるの、ゆうれい」そう言いながら涙を流していた。
「いやだ」
 いやだいやだいやだいやだいやだと言いながら一人は立ったままめそめそと泣きはじめた。ね、ちょっとすわりな。もう一人が立ち上がってベンチに座らせ、自身も隣に座った。
「たとえばさ、森ができて、夏にはセミが鳴きはじめるようなこととか、そういう目に見えるすれすれで起こっているようなことって、風とか。私たちと全然関係ないことってさ、違うか。私たちと全然対等じゃないことっていっぱいあるし、いまアリの話をしてたけどさ、身体の中には細菌だっているよね。宇宙のどっかには宇宙人だっているよね、っていうか宇宙自体生きてるかもしれないし。上手く言えないけどさ、私たちがそれに直接影響しないとは思うけど、何かしら関係はしてるんだよね、きっと。わたしとアリとは違うけどさ、どっかで関係してるっていうか、繋がってるんだよ。だから目に見えないから、知らない、っていうけどさ、たぶんそうじゃなくて、どっかで知ってるっていうかつながってるから、私たちがそれぞれに生きているんじゃないかなあ」
「ん」
「『海底二万マイル』が書かれなくても深海のダイオウイカは生活してたし、ガリレオが望遠鏡を作らなくても地球は回っていたはずだけど、私たちはせいぜい、なんだか世界の方から降りかかってきて、そんな浴びせかけられたものを報告したり話しあうことしかできないみたいだけどさ。でも全然部外者じゃないんだよ。私を作ったのはここなんだからさあ。私の方からだって、世界のどこかのなにかに、何かを浴びせかけてるかもしれないじゃんかねえ。ごめん。わかった? だけどそうやって循環してるから、やりとりしてるから生きてるんだって思うんだよ。あたしは話すけどさ、そもそも言葉があるから話すんだし、言葉は外から来たものだし、あたしの。あたしは言葉で散々傷つけられてきたけど、結局それを使ってて、あたしも誰かを傷つけてんのかな。わかんないけど、言葉だって循環してて、別に誰かの専用じゃないし、言葉が支配されてないんだったらあたしだって、もちろん瑠璃ちゃんだって支配されるいわれなんかないから、そうだよ。言葉を使ってものを考えている以上あたしたちだって言葉と同じように自由に、いろんなところをめぐり歩けるってことなんじゃないのかなあ」
「まおちんすごいね。相談員のせんせえみたいだぁ」
「ごめん、何か全然違う話になってるね。ごめん」
「ううん。ありがとう」
「こっちこそありがと。なんだか話してすっきりした」
 二人はだいたい同時に立ち上がった。少し歩き出して、一人から「大学の学食でお茶、タダで飲めるけど」と言ったが、首を横に振った。その後は何も言わずに歩いていた。アスファルトの照り返しが二人の身体を熱していた。ジジジと脚をばたつかせながら道路の端に転がっている死にかけの蝉があった。
「これ」と一人がかがんで拾い上げた。蝉はミャウミャウジイジイジジというような音をあげて翅と手足をいっそう動かした。うわっと小さく叫んだが、掌からは零れ落ちなかった。
「かわいそう」
「セミはそう思ってないかも」
 寺の入り口に植え込みがあった。その陰に置かれた蝉は小さく唸っただけでもうほとんど手足は動かさなかった。
「セミの苦しみや死とあたしたちの苦しみや死ってちがうかもね。全然ほんとはちがうけど似てるだけで勝手に一緒だと思ってるのかも。セミは、私たちはセミっていうけど、それは私たちの勝手だし、これは、この生きているようなやつは、言葉なんか通じない、言葉の外にいるから、全然わかんないもん」
「でもいっしょだっておもうって、ふしぎだね」
 二人は寺を出て歩き始めた。
「あいつとあたしたちは、たまたまさっき一瞬だけ交わったっていうか直接関係を持ったけど。そうやって直接関係を持ったことで何かがやりとりされたことになるのかな。やっぱりうまく言えないけど、例えば、そうやって触れ合ったことでセミの幽霊がやっぱりいるのかもっていうか」
 片方は、もう一人に話しかけているというよりは、道の先の方をみながら独り言ちているようだった。
「セミの中を言葉が通り抜けた」
「あついや」アームカバーをいじっていた。
「幽霊は言葉なのかなあ」
 来た道を戻って、二人は、それからはなにも喋らず歩いてきて、踏切は、カンカンカンと点滅して遮断機が降りた手前で、立ち止まった。
 なかなか電車はやって来なかった。二人は線路の先を眺めたり手元へ視線を落としたりしながら立っていた。
「最近思うのは、なんていうか、私が私でいることが、もしかして、この苦しさとか生きづらさの原因であるとしたらどうしたらいいんだろうって」
「私が私でいるから、この私がこの私だから、このつらさは一生消えなくて、つまり、私は、例えば鈴木さんだとか、友人だとか、……母だとか父だとか、ではなくて、にもなれなくて、絶対。絶対になれないってわかっている……ということは、つまり私は私の外……、というか私の他のものではなくて、にはなれなくて、このまま。このつらさ自体が、私ということとイコールだとしたら、どうしようって」
「こんなに悲しいのがそのせいなら」
 ゴォーッと音がして、二人の目の前を光の塊が通り過ぎた。カンカンカンカン……という音とは合わないきみょうなリズムでランプはしばらく点滅を繰り返していた。ゆっくりと遮断機が上がり、オレンジがかりはじめた光のなかで二人は斜めに交わる踏切を歩き過ぎていった。


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