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父のこと8 麻雀放浪記

静脈瘤の手術の後の12年間は、父の役者として絶頂期になりました。NHKの大河ドラマや朝のテレビ小説にもレギュラーとして出演しました。しかし、なんといっても、父のベストは、1984年の映画「麻雀放浪記」なのでしょう。父は、出目徳という天才的イカサマ雀士を演じました。せっかく、悪役から刑事役に出征したのに、一番の代表作では悪役に戻ったのです。
この映画はイラストレーターの和田誠さんがこだわり抜いて作った映画です。内容は戦後の混乱期に博打に明け暮れるギャンブラーたちの映画です。学校を辞めてギャンブラーへの道を歩み始める「坊や哲(真田広之)」、バクチのためなら情け容赦ない「ドサ健(鹿賀丈司)」とその妻まゆみ(大竹しのぶ)、オックスクラブのママ(加賀まりこ)、そして、一見とぼけたおやじだが天才的なイカサマ士「出目徳(高品格)」が繰り広げるギリギリの勝負を描いた映画です。

父の出目徳と真田広之さんの坊や哲コンビでイカサマを仕掛け、鹿賀丈司のドサ健が激怒するシーンは圧巻でした。監督の和田誠さんがとにかくこだわり抜いて、イカサマのシーンをノーカットで撮ったり、自然な転がり方がを撮りたいので、細工をしていないサイコロを使っていたのだそうです。山場となる父と真田さんのイカサマシーンでは、父と真田さんが連続して一のゾロ目を出さなければならないのですが、父は何度もNGを出したそうです。後に、「あれは、なかなか出ないんだよ」と僕に語っていましたが、少々不器用な父のことですから、さもありなんと思います。

父は、この映画で日本アカデミー賞 最優秀助演男優賞、ブルーリボン賞 助演男優賞 受賞など数々の賞を受賞しました。日本アカデミー賞の授賞式では、主演女優賞に輝いた吉永小百合さんがスピーチで父のことに触れてくれたことを、父はとても喜んでいました。吉永さんも父も日活出身です。日活時代、父はなぜか「班長」と呼ばれていたようなのですが、そのエピソードを吉永さんが語ってくれたそうです。


*イラストはChatGPTで作成しています。

それからの父は、遅れてきた売れっ子になりました。たくさんのドラマや映画にも出演したのですが、それ以外に、バラエティーの番組、例えば、徹子の部屋に出たり、タモリさんの番組に出て、なぜか淡谷のり子さんのモノマネをしたりなんていうのもありました。淡谷のり子さんのモノマネはノリノリでやっていたのですが、意外にもインタビューは苦手なようで、徹子の部屋では緊張していたみたいです。役を演じている時はカメラの前でなんでもできるのに、そんな面もあるんだと、ちょっと笑えました。でも、どうやら役者さんの中には、そういう人は結構いるようです。

父は麻雀やトランプが好きでした。家族間ではセブンブリッジをよくやりました。静脈瘤手術の時付き添ってくれた叔父とか近くに住んでいた映画監督の山本迪夫さんなどがメンバーでした。僕も混ぜてもらいましたし、お嬢様育ちと自称していた母もそのメンバーでした。叔父が一番強かったのですが、意外にも母も強かったのです。父は、強くありませんでした。

麻雀は、僕が子供の頃から俳優さんたちとやっていました。小学校低学年の頃までは、俳優さんたちが大勢来て徹夜麻雀なんかもやっていました。その頃のメンバーだった人たちの中で、後に有名俳優さんになった方もおられます。

よく父は、嬉しそうに麻雀に出かけていきました。近くに住んでおられた渡哲也さん宅が多かったようです。渡さんも何度か我が家に来られて麻雀をしていました。渡さんは全く気取らない方で、いつも照れくさそうに玄関から入ってこられました。

一度、松田優作さんがこられたことがありましたが、いやぁかっこいい!松田優作さんはとても手足が長く、麻雀牌を積もる時、トイメンにいた父のおでこのあたりまで松田さんの手が伸びているのが、とてもおかしかったです。

父の勝率はあまりよろしくなく、負けてばかりみたいでしたが、麻雀の後は、いつもニコニコしてました。

麻雀は、僕の方がうまかった・・・と思います。大学時代、毎日のように麻雀をして、本も何冊も読みました。その中でも、阿佐田哲也さんの麻雀放浪記は僕のバイブルで全巻読みました。まさか、後に父が出目徳を演じるとは、想像すらしていませんでした。

僕が学生時代入り浸っていたのは、大学の正門前の横断歩道を渡ったところの喫茶店の2階にある雀荘でした。

その雀荘は、60を過ぎたおばさんがひとりできりもりしていた店でした。

いつものように雀荘に行くと、客は誰もおらず、僕は、面子がそろうまでお店で待つことにしました。

おばちゃんが、僕に言いました。
「大学、来年移転するんでしょ?」
「そう決まったみたいですね」と、僕。
「大学が保土ヶ谷に移転したら、この店も閉めなきゃね」

おばちゃんは、もう20年以上、その場所で雀荘を経営してきました。僕は、なんと答えたらいいのかとまどい、おばちゃんが入れてくれた熱いお茶を、黙って飲んでいました。

おばちゃんが伸びをしながら、「たまには休みをとって、温泉にでも行きたいねぇ」と言います。

「行ってくればいいじゃないですか」と僕は答えました。

おばちゃんが、「でも、だれがお店やるのよ?」と困った表情をしました。

閉めるまで、できるだけ店をあけておきたいらしいのです。「その間、僕が店を切りもりするよ」と、軽い気持ちで言いました。

この会話がきっかけで、本当におばちゃんは2泊3日の温泉旅行に行くことになり、その間、僕が雀荘の店番をすることになったのです。

温泉旅行の当日の朝、おばちゃんのアパートで待ち合わせ、いっしょに雀荘まで歩いて行き、雀荘についてから、ちょっとした注意事項を聞いて、鍵を受け取り、僕の雀荘店長の3日間がはじまりました。おばちゃんは楽しそうに友達と温泉旅行に出かけていきました。

お昼すぎまではだいたい暇なのですが、2時3時ぐらいになると、ぼちぼち学校をさぼった学生がやってきます。多くは顔なじみで、僕が店番をしているのに驚く学生もいましたが、「おばちゃんが言ってたけど、今日から3日間、店長やるんだって?」などと声をかけてくる事情通もいました。

大変なのは夕方以降です。学生や、仕事の終わったサラリーマンなどで満員になります。僕は、会計をし、お茶を持って行き、お客様の出前を頼み、注文があればインスタントラーメンを作ったりしました。お客さんが帰ったら、雀卓をきれいにして、牌をふせて、点棒をそろえて・・と、まあこまめに働きました。当時風営法がうるさく、夜中の12時以降は営業できなかったのですが、そこはそこ・・、用意されていた黒いラシャ紙を窓に貼って、中の光が漏れないようにするのも店長の役目でした。

お客さんがみんな帰った後、掃除をして、売り上げを確認してオシマイで、その後は、友達の下宿に転がり込んで、雀荘店長1日目が終わりました。
2日目も同じような感じで、最後の3日目が確か土曜日だったと記憶しています。土曜日は、学生もサラリーマンもあまりいないので、お客が少ないのです。夜にはおばちゃんが帰ってきますから、それまでのんびりしていればよかったはずでした。

店をあけたものの、まったくお客さんは来ず、僕は椅子に座って漫画を読んでいました。

昼ごろになると、4人の体格の良い男性が入ってきました。いつものおなじみさんです。ただ彼らは、学生でもサラリーマンでもありません。そう・・。例えば、芸能界の方々が付き合うと引退しなければならない種類の方々だったのです。その中のひとりTさんは、有名な方で、弾を撃ち込まれたことがあるため、右足が不自由で、いつも杖をついていました。ですから、彼が店にやってくると、階段を上ってくる足音でわかるのです。コトッ・・、トンッ、コトッ・・。この音が聞こえたら、Tさんです。

雀荘にいりびたっている学生の間では、Tさんはある種のあこがれの目を持って見られていました。かっこいいし、麻雀も強いらしく、たいてい勝っているようでした。インテリで、事務所の経理面は全てTさんがひきうけていて、有名大学を中退してその道に入ったというもっともらしい噂もありました。

4人は、真ん中の雀卓にすわり、さっそく勝負が始まりました。彼らは点棒を使いません。やりとりは、全て現金です。4人共あまり言葉を発せず、黙々と打っている姿には迫力がありました。

勝負は、どうやらTさんの一人勝ちのようでした。他の3人からは、清算の度に「ついてるやつには、かなわねぇ-や」などというぼやきも聞こえてきました。他にお客さんもいなかったので、僕は、じっと彼らの真剣勝負を観させていただいていました。

そんなとき、店に電話がかかってきました。

Tさんの事務所からでした。「Tさん来てるかい?」と電話の主は言います。僕は、黙々と勝負をしているTさんに「Tさん、事務所から電話です」と大きな声で伝えました。それを聞いたTさんは、「いないと言え」という手振りをしたのですが、僕が大声でTさんを呼ぶ方が一瞬早かったのです。仕方ないという表情で、Tさんは、勝負を中断して電話に出ることになりました。

電話を切ったTさんは、残りの3人に、「すまない、事務所に戻らなきゃならなくなった」と言います。ところが、残りの3人が納得しないのです。3人は席を立ち、「勝ち逃げする気か!」とTさんに迫ります。

まずいことになりました。僕は、どうしたらよいかわからず、ただその場に立ち尽くしておりました。

その時、Tさんと僕の目が合ったのです。

Tさんは、「君」と僕の方を指さしました。Tさんは、年下の学生であっても「お前」とは呼ばず「君」と呼ぶ人でした。

「君は麻雀打てるよな」とTさん。僕は、めっそうもないという体で、「とんでもありません」と答えました。

しかし、Tさんは許してくれません。「時々後ろで見てたが、そこそこ打つじゃないか」と言うのです。

これは、とんでもない展開になってしまいました。

おろおろしていると、他の3人もTさんに同意し、「そうだ、お前がTの代わりに打て」ということになり、僕は首根っこを掴まれるような形で、雀卓の前に座らされました。

点棒が入っているはずの箱の中には、札束がぎっしり入っていました。
Tさんは、「1~2時間で戻ってくる。その間、しのげ」と言います。そして、「負け分はオレが払う。勝ち分は、駄賃として君にやるよ」と付け加えました。

僕は、もうやるしかなかったのです。「あ~、こうして、人は借金まみれになって、人生を転げ落ちるんだ・・」・・そんなことが頭によぎりました。

「さあ、はじめよう」と3人が言い、僕は、仕方なく彼らと一緒に麻雀牌をかき混ぜはじめました。そして、Tさんの足音は、コトッ・・、トンッ、コトッ・・と遠ざかっていきました。

それから僕は必死でした。まず勝とうとは思いませんでした。Tさんが帰ってくるのを信じて、しのぐことだけに注意を向け、絶対に振り込まないことに神経を集中することにしました。僕は、一か八かの勝負を避け、自分の手よりも相手3人の手をひたすら推定しました。「どのへんから、どんな牌が出てきたか?」、「だれが何度牌を入れ替えたか?」を全て記憶し、彼らの、ちょっとした会話に注意しました。目の動き、たばこを吸う回数、肩の緊張・・・それも重要なサインでした。そこから、彼らの調子、彼らの手の大きさ、テンパっているかどうかを見極めようとしたのです。

最初の半荘は、そうした緊張の中で進み、なんとか2位に食い込みました。プラスひとけたのちいさな勝ちになりました。

もう全精力を使いきった感じになったのですが、まだTさんは帰って来ないのです。

有無を言わせず、次の半荘がはじまりました。今回もさっきと同じです。ただただ相手の動きに注意を向けました。今回も一度も振り込まずに東局が終わり、南局へと進んでいきました。一人の人が、大勝ちをしていて、ふたりが大きくへこんでいて、勝負に出ない僕は、プラスマイナスゼロあたりをウロウロしていました。こういう局面の定石として、負けているふたりは、一発逆転よりもまずは僕を狙い撃ちにして、2位を狙ってくるはずでした。そうなるとやっとのことで持ちこたえている僕も、耐えられないかもしれません。そして、Tさんは一向に帰ってくる気配が無いのです。

案の定、負けている二人は、僕を狙い始めました。ひっかけというやり方で待っていることが多くなり、さかんに僕に向けて「兄ちゃん、守ってばかりいては、勝てないぜ」などと心理的にゆさぶってきます。

その時、僕は思ったのです。

「あぁ、最初からこれは罠だったんだ」

誰もいない土曜日の昼に4人で乗りこんできて、途中でTさんに電話がかかり、僕が電話に出て、Tさんが事務所に帰る・・これは、すべて最初から仕掛けられていた罠に違いない・・僕はそう思いました。そうなると、僕が身ぐるみはがれるのは時間の問題です。両親の顔が浮かび、僕は気弱になってきました。借金を作ったら、バイトをしまくるしかない。しかし、利子がトイチだったらどうしよう・・。そうなったら、父に頼むしかない。僕の負け分は、50万円になるのだろうか?いや100万いくかも・・・などなど・・。「おやじ、すまない」と謝るしかない。その時父はどんな顔をするだろう?そんなことばかりが頭をよぎるようになりました。僕の集中力が鈍くなってきていました。これは危険なサインです。

僕は頭を振り、そうした気弱な気持ちをなんとか立て直し、「ここで、ふんばらなければ」、「Tさんは必ず帰ってくると信じるしかないではないか」と自分に言い聞かせました。

相変わらず「絶対に振り込まない」を徹底し、南2局まで勝負が進んでいきました。「あと少しで、この半荘が終わる」、「この半荘だけでもしのごう」と心に決めた時、コトッ・・、トンッツ、コトッ・・という音が聞こえてきたのです。

「助かった・・」と、僕は思いました。

ドアを開け入ってきたTさんは、いきなり僕の点箱を覗き、そして、「おっ、勝ってるじゃないか」と言いました。僕は、ヘナヘナヘナという感じで、「ここまで、なんとかしのぎました。後はよろしくお願いします」と席をTさんに代わろうとすると、「何言っているんだ、この半荘は最後までやれよ」と言うのです。仕方がありません。南3局、4局をなんとかしのぎきり、その半荘も2位でフィニッシュしました。半荘2回でトータル10弱のプラスでした。

僕は、そこでお役御免となり、無事解放されました。そして、Tさんが、「君の勝ち分だ」と言って、当時の学生としては目の飛び出るようなお金をくれました。僕は、お断りしたのですが、「バイト代だ。とっておけ」と言われ、そこであんまりお断りすると、早く勝負をしたい他の3人の皆さんに怒られそうなので、ありがたく「バイト代」としていただきました。

その後、4人は、黙々と麻雀を打ち夜になって帰って行きましたが、結局Tさんの一人勝ちだったようです。夕方になると、お客さんもそこそこ入りだし、僕は、その前の二日間のように、出前を注文し、ラーメンを作り、牌を片付けました。

夜になると旅行から帰ってきたおばちゃんが、雀荘にやってきました。
「温泉楽しかったぁ~。ありがとうね」とおみやげをもらいバイト代をいただき、僕の雀荘店長経験は終わったのです。

人生で最も緊張した恐怖の1時間半でしたが、一方で、プロみたいな方々と渡り合って凌ぎ切ったことに満足感がありました。

しばらくしてから、ちょっと得意げに父にこの話をしました。

父は、ニヤッと笑ってタバコを一服ふかし、その後、ただ「いい経験したじゃないか」と言いました。その時の父は、今から思うと麻雀放浪記の出目徳の顔でした。

父の「いい経験したじゃないか」には、様々な意味が込められているように感じました。「やるじゃないか」というのもあったかもしれませんが、同時に「そのさきに行ったら地獄だぜ」という意味もあったのでしょう。「僕の負け分は、いや100万いくかも・・」と怯えてたあのときの情景がよみがえりました。あの緊張を一生続けるのはごめんだなと思いました。

ちなみに父のタバコは、ハイライトではなく、マイルドセブンに代わっていました。

その後、僕には何度か危ない場面がありました。例えば、後に横浜のキャバレーでウェイターのバイトをしていた時、一流大学中退のマネージャーから目をかけられ、働かないかと誘われ、「大学卒業してサラリーマンになったってアメ車乗れねぇぞ」と口説かれた時も、「この一線を越えたら地獄だぞ」とブレーキをかけることができました。

大学3年の期末テストが終わった後、僕は、さっそく例の雀荘に行きました。4月になったら大学が別の場所に移ってしまうので、おばちゃんは、やはり店を閉めることにしたとのことでした。

雀荘に着くと、僕が一番乗りで、お客さんもだれもいませんでした。おばちゃんはいつものように、麻雀牌を整え、きれい掃除をしていました。僕は、いつものように、おばちゃんの入れてくれるお茶を飲みながら、なんということもない話をしていました。

そのとき、おばちゃんが言いました。「こーご君、この雀卓いらない?店閉めたら、いらなくなっちゃうし・・」

僕は、持って帰るのも大変なので、お断りしました。おばちゃんは、ちょっと残念そうでした。

やがて、悪友たちがやってきて、いつものように麻雀がはじまりました。もうこの雀荘とはお別れなので、その日は、超満員になり、おばちゃんは、いつもにもまして忙しそうにしていました。

夜になって、僕らは帰り、4月になったらその雀荘はなくなり、その後、おばちゃんがどうなったのか知りません。

今でも時々、あの雀荘のことを思い出します。そして、あの雀卓はもらっておけばよかったと、悔やまれるのです。

※イラストは、ChatGPTで作成しました。

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