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父のこと11 信頼する勇気

僕の中で今でもはっきりと覚えている「最初の冒険の記憶」は、小学校に上がる直前のできごとでした。 僕はそのころ神奈川県川崎市の鹿島田というところに住んでいました。
今の JR新川崎駅 があるあたりです。小学校に上がる前の春休み、ひとりで電車に乗って幼稚園の時の同級生に会いに行った事があります。僕の記憶では、彼(仮にA君としましょう)は、幼稚園卒園後、JRの(当時は国鉄の)南武線で30分くらいのところに引っ越したのです。
この企画を誰が考えたのかはわかりません。僕がA君の家に遊びに行きたいと言ったのがきっかけで、母親同士が話し合って、父が大丈夫だろうと言って決まったことなのでしょう。心配性の母ですから、そっと誰かがついていった方がいいのではないかぐらいのことは考えたと思いますが、父はその必要はないと言ったと思います。
僕は、うきうきして南武線に乗り、座席に座って、ずっと外を眺めていました。あんまり夢中に外を見ていたので、南武線の窓に、僕の鼻型がついてしまっていたのを覚えています。最初のうちは住宅街なのですが、武蔵小杉という駅を過ぎる頃になると、あたりは一面のブドウ畑になり、民家もパラパラとしか見えなくなっていきました。その景色の変化は、僕をワクワクさせました。たった30分の旅だったのですが、その頃の僕には、大旅行だったのです。目的地の駅には、A君とお母さんが待っていました。
小さい駅だったので、すぐにA君をみつけることができました。
A君と僕は、それから1日中外で遊びまわりました。A君の家の周りは、自然がいっぱいで、僕たちは、あらゆる秘密の場所を探検に行きました。そのため、僕たちは泥だらけになってしまったので、A君の家で風呂に入り、その後、ラーメンをご馳走になりました。
思う存分遊んで、たくさん食べて、夕方になり、家に帰る時間になりました。A君とお母さんが南武線の駅まで送ってくれました。駅までの道で、夕焼けがとてもきれいだった事を覚えています。
いつまでも手を振るA君と、A君のお母さんと別れてから、再び僕の南武線大旅行になりました。しかし、今度は、様子が違っていました。あたりは、みるみるうちに暗くなり、南武線の窓から見えるものは、時々不気味な音をたてながら通り過ぎる踏切だけになりました。今でこそそのあたりは住宅街になっていますが、その頃はなにしろ一面のブドウ畑でしたから、日が暮れると真っ暗になってしまいます。そして、南武線の中には、ほとんど乗客がいませんでした。


※イラストはChatGPTで作成しました

窓から外を見ていても、いつまでたっても街の明かりが見えてきません。僕は、しだいに不安になっていきました。「反対方向の電車に乗ってしまって、自分の家からどんどん離れていってしまっているのではないか?」といった疑問が頭に浮かんでからは、もういけません。
その疑問は、しだいに確信に変わっていきました。「間違いない。反対方向に進んでいる」、「このままでは、知らない場所に行ってしまって、帰れなくなってしまう」との思いが、みるみるうちにふくらみ、僕はその確信に囚われていきました。
「次の駅で降りて、ひき返そうか」と考え始めるようになり、ひとつの駅に着いたとき、ついに、僕は降りる準備をしてドアのところまで歩いて行きました。そこは大きな駅で、どこか見覚えのある駅でした。
武蔵小杉の駅に似ていると思いました。武蔵小杉であれば、僕は家に向かっている事になるのです。武蔵小杉には、昼に来たことがあったのですが、夜なので、様子が違い、よくわかりません。どうしよう・・・。やはり、降りるべきだ、いや、降りてはダメだ・・・。ドアが閉まる瞬間まで迷いに迷い、僕は、電車に残ることにしました。それからは、もはや座っていることができなくなりました。ドアのところに立って、外を眺め、必死の思いでどこかに見覚えのある景色はないか探しました。やがて、民家の数が増え、見覚えのある小さな川とそのそばの踏切を見つけました。
僕は、「まちがいない、まちがいない!」と心の中で叫びました。そして、僕の家がある鹿島田の駅についたとたん、僕は走り始めました。早く家に帰りたかったのです。改札口の方をみると、駅の外で母と弟を肩車した父が待っていました。僕は、その姿を見つけると、走るのをやめました。息ははずんでいるのですが、なにごともなかったようにすまして改札で駅員さんに切符をわたしました。自分があせっていた事に気づかれたくなかったのです。母が、僕に「だいじょうぶだった?」と聞いてきました。僕は、「こんなの、へっちゃらだよ」と答えた事を覚えています。


※イラストはChatGPTで作成しました

僕の中では、鹿島田の改札口の明かりの中で待っていてくれた父と母と弟の姿が、とても幸せなシーンとして残っています。その後の僕の人生は、順風満帆とはいかなかったし、トータルすると失敗したことの方が多いと思うのですが、このときの記憶は今でも僕を元気づけます。

父は、言葉が多い人ではありませんでした。基本的には僕を放っておいて、信頼するというスタンスでした。そして、時々短い言葉で励ましてくれました。

放っておいて、やらせておいた上で、信頼するというのは、なかなかできることではありません。それをやるには勇気が必要です。僕が父から学んだもっとも大きなことは、その「勇気」かもしれません。

父の没後30年が経ち、こうして父との思い出を書き残すことで、僕自身のグリーフプロセスの仕上げにもなったような気がします。

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