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【百年ニュース】1921(大正10)10月5日(水) パリ市内バティニョール地区のトンネルで列車衝突事故。夕方のラッシュ時に321mのトンネル内で故障した列車に別の列車が追突し火災発生。逃げ遅れた乗客28名が死亡。人口過密地帯の地下を通るトンネルであったが,政府は直ちに解体を決定,1926に完了した。

パリ市内バティニョール地区のトンネル(le tunnel des Batignolles)内で列車衝突事故が発生しました。夕方のラッシュ時の事故であったため被害が甚大化しました。トンネルの全長は321m、暗闇のなかで故障した列車に、別の列車が追突し猛烈な火災が発生しました。逃げ遅れた乗客28名が死亡する惨事となりました。

1921年10月5日午後5:48発の郊外行列車333号がいつものようにサン=ラザール駅(la gare Saint-Lazare)を出発してベルサイユに向かいました。21両の旧式木造客車には帰宅する多くの通勤客が乗車していました。バティニョール・トンネル内部を通り抜けようとしたとき、自動ブレーキが作動しトンネル内部で列車がストップしました。列車から線路に降りた整備士、運転士、車掌の三名は、5両目と6両目の車両をつないでいる圧縮空気ホースの破断が故障の原因であることを発見し、その場で修理の準備を始めました。

午後6:12、同じ線路上を走っている列車253号が時速約30 km/hのスピードで走っていましたが、トンネル内で事故を警告する赤い発煙筒の煙を発見します。緊急ブレーキをかけましたが、重量85トンの機関車は容易に停車することができず、停車中の列車333号最後尾に衝突しました。

いくつかの車両が横転し、照明用ガスのタンクが突き破られて発火、火災が発生しました。衝突した二つの列車の車両に沿って急速に燃え広がりました。トンネル内は猛烈な煙で視界が遮られ、また息が出来ず窒息状態になった乗客が逃げまどう修羅場と化しました。

このトンネルは人口過密の市街地下を通るものでした。周辺の5つの消防署から消防士はすぐに駆け付け、燃えている車両に放水し鎮火に成功しましたが、パリ市内は公共交通が一時的に麻痺し大混乱となりました。

ボージョン(Beaujon)病院に負傷者と死者が運び込まれました。28名の犠牲者のなかには、ロハン・シャボット(Rohan Shabot)伯爵の息子で陸軍学校の入試を控えていた若きサムラン・ド・ロハン・シャボット(Samran de Rohan Shabot)が含まれました。

事故再発を恐れる世論に押され政府は直ちにこのトンネルを解体することを決定しました。取り壊し工事は1923年に開始され、1926年に完了しました。現在ではローマ通り(rue de Rome)の下に一部の回廊だけが残され、トンネルの名残をとどめています。

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