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【百年ニュース】1921(大正10)11月12日(土) ベルギー象徴派の画家フェルナン・クノップフが死去,享年63。裕福な裁判所判事の家庭に生まれたクノップフは,両親の希望でブリュッセル自由大学法学部に進むが中退,改めてブリュッセル王立美術アカデミー入学。カルト的人気を誇る画家に。

ベルギー象徴派の画家フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff)がブリュッセルで死去しました。享年は63歳でした。

フェルナン・クノップフの祖先は17世紀初頭にスペイン領ネーデルラント君主としてオーストリアからフランドル地方に入ったアルブレヒト・フォン・エスターライヒの側近であったとされます。何世代にもわたる裕福な家庭で、父親は裁判所の判事、また家系の多くの男子が法律家となる家柄でした。

1858年9月12日にベルギーのグレムベルゲンに生まれたフェルナンも幼少時代から法律家になるよう教育されました。そのような家庭の事情により、18歳のとき両親の希望でブリュッセル自由大学の法学部に進みます。しかし在学中に文学や美術への興味を深めたフェルナンは徐々に法律への興味を失い、結局ブリュッセル自由大学を中退、改めてブリュッセル王立美術アカデミーに入りなおしました。

1877年頃からはパリを数回訪問し、ドラクロワやモローなど多くのフランス・ロマン派の作品を直接目にする機会を持ちます。1878年のパリ万国博覧会の美術展覧会にも出かけました。この展覧会では巨匠ミレーが一室を与えられ『落穂拾い』など代表作9作を展示しておりフェルナンに影響を与えたと言われています。またエドワード・バーン=ジョーンズなど当時英国で勃興していたラファエル前派の作品も目にし、作風に影響を受けました。

1881年にブリュッセルの画廊「サロン・デ・レソール(Salon de l'Essor)」でフェルナン・クノップフの作品が初めて公開されました。当時のベルギーの若き詩人・劇作家エミール・ヴェルハーレンが称賛し、ベルギーの画壇と文壇で同時に象徴主義運動が起こります。フェルナン・クノップフは欧州の画壇で注目されるようになり、1889年には英国でも定期的な展覧会が開かれて、ラファエル前派の画家とも親交を深めます。

1898年3月に第1回ウィーン分離派展が開かれましたが、フェルナン・クノップフの絵画が21作品も展示され賞賛を受けました。このとき4歳年下のウィーンの画家グスタフ・クリムトに大きな影響を与えたとされています。

晩年はオペラの衣装やセットを手掛けるなど活動の幅を拡げていました。その独創的な作風には厳しい批判もある一方で、存命中からカルト的人気を誇っており、現在でも多くのファンがいます。

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フェルナン・クノップフ



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