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【百年ニュース】1922(大正11)年1月7日(土) ハワイのクヒオ王子(ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ)が死去,享年50。1894米国がハワイ王朝を倒しハワイ共和国を設立するとクヒオは反乱に参加。逮捕され死刑を宣告されるが減刑され服役。出獄後は政治家となり20年に渡り米国議会のハワイ代表を務めた。

はじめに

ハワイのクヒオ王子が死去しました。享年は50歳でした。本名はジョナ・クヒオ・カラニアナオレ(Jonah Kūhiō Kalanianaʻole)です。ハワイ併合後に同地を代表して米国で議員をつとめました。

1871年3月26日にクヒオはカラカウア王家の王子として誕生しました。王族が学ぶオアフ・カレッジを卒業し、のち米国カリフォルニア州のセント・マシュー聖公会学校、さらにイギリスの王立農業大学にも留学しました。

日本との関係

1888(明治21)年に当時17歳のクヒオは日本を訪問しています。ハワイ国王カラカウアが派遣したもので、日本政府も歓迎しました。

その7年前、1881(明治14)年にカラカウア王自身も日本を訪問していますが、その際赤坂離宮で明治天皇と会談し、姪のカイウラニ王女(5歳)と山階宮定麿王(13歳)の縁談を持ちかけたことは有名です。米国の圧力に対抗するため国王は日本との強力な提携を模索していました。

17歳のクヒオ王子が日本を訪問した際にも同様に、カラカウア王はクヒオと日本の皇族の女子が結婚することを望んだとされます。しかし今回も日本政府が拒否したため、この工作はうまくいきませんでした。

クヒオ王(1871-1922)

ハワイ併合

1893年にハワイ事変(ハワイ革命)が起き、翌年ハワイ王朝は倒れます。米国の主導で新憲法が発布され、新国家「ハワイ共和国」成立が宣言されました。米国はさらに支配を強め、5年後の1898年にはハワイ共和国の主権が米国に譲渡され、1900年にはハワイ準州となりました。

この間クヒオは米国に抵抗するウィルコックスの反乱に参加します(1895年)。米国に支えられた共和国軍と警察力の前に反乱はすぐに鎮圧され、クヒオは逮捕されました。一旦は死刑を宣告されましたが、禁固1年に減刑となりました。

満期で出獄したあとは政治家となり、1902年に共和党に参加します。その後は20年間に渡り米国議会のハワイ代表を務めました。クヒオの誕生日3月25日は現在でもハワイ州の祝日「クヒオ・デー」として祝われています。

1921年1月13日 東京朝日新聞
クヒオ王(1871-1922)
ワイキキビーチのクヒオ王銅像


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