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【百年ニュース】1921(大正10)10月22日(土) 松下電工の三好俊夫が大阪府寝屋川市で誕生。1946年から4年間松山経済専門学校(現在の松山大学)教授を務めたあと松下電工に入社した異色の経歴。1988社長に就任,3年後には1兆円企業に育て上げた。直言する財界人としても知られた。2000(平成12)没,享年78歳。

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「松下電工の天皇」とも呼ばれた三好俊夫が大阪府寝屋川市で誕生しました。三好俊夫は神戸経済大学(現在の神戸大学経済学部)を卒業したあと、1946年から1950年までの4年間、松山経済専門学校(現在の松山大学)教授として教鞭をとりましたが、自身は学問よりも実業のほうが向いていると思いなおし、サラリーマンに転身して松下電工に入社した異色の経歴の持ち主です。

松下電工では自身の専門分野である経理のほか企画畑を主に歩みました。この間松下電工は大きく成長し、三好俊夫は1988年に社長就任、そして3年後には松下電工を売上1兆円企業に育て上げました。主な実績として住宅や環境機器、介護施設向け福祉事業など新新野に参入したほか、海外展開を積極的に推進しました。生産拠点の海外シフトを進めただけではなく、シンガポールやドイツなどグローバルに営業拠点を整備することに力を注ぎました。

また三好俊夫は関西経営者協会の会長、経団連常任理事などを歴任していますが、直言する財界人として知られ、経済界を代表する論客として注目されていました。特に地方分権に熱意を持ち、大阪市や神戸市など大阪湾岸部の自治体の合併を進め、東京都に対抗する阪神都をつくるべきと主張したことで知られています。のちの大阪都構想へと繋がる発想の嚆矢だったと言えるかも知れません。

三好俊夫は松下電器産業創業者である松下幸之助から直接薫陶を受けた最後の世代でした。松下電工の名誉会長を務めるほか、死去するまで松下電器の監査役も務めていました。そして2000(平成12)年6月29日肺炎のため死去、享年は78歳でした。

なお三好俊夫の死後4年が経過しますと、それまで松下グループのなかでも比較的独立を保っていた松下電工への風向きが変わってきます。2004(平成16)年に松下電器によるTOBにより、松下電器による松下電工への出資比率が31.8 %から51 %に高められて、松下電器の子会社となりました。そしてさらに四年後の2008(平成20)年に松下グループがパナソニックグループに衣替えすると、国内ブランドとして使用してきた「National」は廃止され「Panasonic」に統一されるとともに、翌2009(平成21)年に松下電工は社名をパナソニック電工に変更しました。そしてさらに3年後の2012(平成24)年、パナソニック電工はパナソニックに吸収合併され76年の歴史に幕を下ろすこととなりました。

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松下電工CMの初代「きれいなおねえさん」は当時の人気女優であった水野真紀です。1996年には花嫁候補No.1女優となったことで知られています。2004年に衆議院議員の後藤田正純と結婚しました。


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