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【百年ニュース】1921(大正10)3月5日(土) 日本初の異種格闘技興行開催。渋沢栄一はじめ群衆が見守るなか,米国のプロレスラー,アド・サンテルが講道館の永田礼次郎3段と対戦。横四方からのヘッドロックで永田がタップ負け。しかし審判がサンテルの反則を宣言し結局無効試合に。

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翌日3月6日(日)の2日目は庄司彦男3段とサンテルが試合を行い時間切れ引き分けとなった。庄司がサンテルに巴投げを繰出す等セメント色の薄い試合となった。最後にサンテルとウェーバーが模範試合で米国式レスリングを披露。庄司はのち米国留学,日本にレスリングを紹介。1947衆議院議員に(社会党,鳥取)。

アド・サンテルの本名はアドルフ・アーンスト。現代における最初の総合格闘家と見做されている。1887年にドイツのドレスデンで生まれ,米国に渡ると「アメリカン・キャッチ・レスリング」別名「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」というフリースタイルのレスリングで頭角を表した。

1914年シアトルで柔道家の三宅タローと戦い勝利して以降、米国で日本の柔道家を次々と破った。そして今回ちょうど100年前の今日、1921年、大正10年、3月5日に日本での初の異種格闘技戦となる永田礼次郎との試合に臨んだ。当時サンテルは34歳。身長175㎝、体重84㎏だった。

大正時代の小柄な日本人から見ると大男に見えたはずだろう。のちアメリカンキャッチレスリングは、予め勝敗のブックを定め、ビジネス的興行に徹するプロレスへと発展していった。サンテルは1933年に46歳で現役引退。

その頃6カ月を費やして、ハンガリー系のプロレスラー、ルー・テ―ズにキャッチレスリングの技術を授けたとされる。1966年にカルフォルニア州アラメダで死去、享年79歳。

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