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【百年ニュース】1921(大正10)5月7日(土) プロ野球選手・監督の川崎徳次が佐賀県鳥栖市で誕生。満州撫順炭鉱に入社,1940年都市対抗野球大会に満鉄倶楽部で出場し,大会2連覇中の藤倉電線を破る。戦後読売巨人軍のち西鉄ライオンズで活躍。引退後コーチ,三原脩監督の西鉄黄金期を支え,監督を引き継いだ。

プロ野球選手・監督の川崎徳次が佐賀県鳥栖市で誕生。龍谷中学に入学し、陸軍幼年学校を受験するも不合格となり、久留米商業学校に進みました。久留米商業のエースとして夏の甲子園の福岡大会でベスト8となりました。

卒業後は満州に渡り撫順炭鉱に入社、1940(昭和15)年の社会人都市対抗野球大会では満鉄倶楽部で出場し、大会2連覇中の優勝候補「藤倉電線」を初戦で破り注目されました。同年11月にシーズン途中の職業野球団南海軍に契約金2000円、月給150円の破格の条件で入団しました。1942年に召集を受け、ビルマのマンダレーで終戦を迎え、強制収容所で交流生活を送りました。

復員後は読売巨人軍入団,1947(昭和22)年のシーズンはチームトップの24勝、翌年27勝、1949(昭和24)年も19勝をあげ、巨人の戦後初優勝に貢献しました。1950(昭和25)年の2リーグ分裂で、郷土に近い福岡の西鉄ライオンズに移籍。1955(昭和30)も17勝をあげ連続二けた勝利を続けました。

1957(昭和32)年引退。コーチとして三原脩監督の西鉄黄金期を支え、1960(昭和35)には三原から監督を引き継ぎました。のち1967(昭和42)年には阪神タイガースの一軍投手コーチを務め、当時新人投手だった江夏豊のピッチングの原型を作ったとも言われています。2006年没、享年84歳でした。

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