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【大きなひとりごと】手に入れたときの寂しさ

何かを手に入れたときや何かができるようになったときに、少しの達成感や喜びと同時に、できなかったときの感覚を失う寂しさを感じる。

程度は違えど、きっと誰もが感じたことがあると思う。

1つの中途半端な能力と引き換えに1つの感覚を失う

例えば、フィリピンでは今流行っている曲だけでなく、随分前に主に米国で流行った曲も日常的に街中に流れている。
ふと、自分が学生の頃好きだった曲が耳に入ってきて、懐かしさと同時に違和感を覚える。
あの頃は、よく分からないけど直感的に好きだと思って、その後で歌詞を見たりMV(当時はPVって言ってたね)を見たりして、より深く曲に入り込んでいった気がする。
でも今はもう何を言ってるのかなんとなく聞き取れてしまって、「なんて言ってるか分からないけど、なんか好き!」という感覚だけに頼った判断はもうできないのかと思い、違和感の正体に気付く。

もちろん、私の英語力では全てが聞き取れる訳ではないし、他の言語の曲を聴けばまた新たな体験があるのだと思う。
でも、1つの中途半端な能力と引き換えに1つの感覚を失ったことは変わらない訳で、こういう日々の交換をとても寂しく感じる。
もしかすると、手にしたものよりも失ったものの価値の方が自分にとっては大きかったのかも知れないし、もう手には入らないと思うからこそ美化されてしまうのかも知れない。

自分だけの問題ならまだいいけれど・・・

これが自分だけの問題なら、まだ自分が勝手に寂しく感じていればいいだけのこと。でも、他者を巻き込んでしまうと最悪である。
自分の失ったものを尊ぶ傾向には大分前に気付いてはいたので、それ以降人間関係を築く時はとても注意深くなっている。
この辺りは掘り下げても暗く、分かっている解決策もまだ書けそうにないのでまたいつか。

非日常が日常になってしまったように感じてしまう、旅行も要注意

さて、来月約1週間休みを取ってローマに旅行する予定なのだけど、旅行にもこの寂しさがつきまとう。世界遺産など、ずっと行きたいと思っていた場所に行けてしまったときは特に要注意。
自分がその地に立ったことで非日常が日常になってしまったように感じてしまい、大事なものを失ったような錯覚に陥る。そこに来れるくらいあらゆる面で大人になってしまったことも寂しいのかも知れない。
そして本当にそこに来ているのか疑ったり、自分がどこにいるのか分からなくなりそうになる。(それもそれで面白い体験なのかも知れないが…)
もしマチュピチュなんて行けてしまった日には感動と絶望のどっちが勝ってしまうのだろうかと今から恐ろしい。旅行くらい素直に楽しみたいものだ。

この辺りはきっと、「目的地」だけを目的にせず、旅行にまつわる体験全てを楽しむようにすれば解決するのだと思う。計画段階から、誰と行くか、誰に会いに行くか、何を話すのか。何を見て何を感じ、どう心が動いたのか。どこでどんな美味しいものを食べたのか!一度や二度見たくらいで攻略感を感じてしまうとしたらただの飽きっぽい人なのかも。
またそのうち降り立ったことのない場所に行った時に自分を探ってみようと思う。

他にやるべきことがあるからきっと絶望ではないと信じたい

ちょっと話がそれてしまうけれど、小4の時の担任の先生がある日、「物語の続きが早く見たいということは、早くその話を終わらせたいということ」というような趣旨の話をしたことがあった。
これは今でも場合によると思っているけれど、唐突に哲学的な話をしてくれる先生は好きだった。漫画や小説が面白くて単純にその続きが読みたい、ずっとその面白い体験が続けばいいと思っているときや、自分の望む展開に進んでハッピーエンドを迎えてほしいと思っているときなどがある。(途中で理想的な展開を迎えたのでそこで読むのを止めてしまったこともある…)

今、実生活では仕事が忙しく、そこでは自分が思っている終わりに向けて頑張っている状態だ。自分が望む終わりに辿り着いた時に達成感や喜びを感じられるのか、やっぱり寂しさが勝ってしまうのか、答えが分かるのはいつだろう。(もう本当に忙しくて休暇前から休暇後が心配!)


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