波乱の人生〜修行時代①〜

胡散臭い占い師は、いつも何人かの女の子たちを引き連れており、占い師は彼女たちの事を『弟子たち』と呼んでいた。
後に、彼女らはお客さんだったり本当の弟子だったり関係は色々だったが、私は占い師に対して「好き」と言う恋愛感情がないので気にならなかった。
当時の私は、自分の中に湧いて出てくる初めての感覚が何なのかを知りたくて、そこに夢中だった。占い師の事を何も知らないけれど、タイプでも無いけれど、傍にいたい。
離れている事に違和感を感じる程、胡散臭い占い師を強く求めていた。


円満別居が終わりを迎える時がきた。
娘が小学生になってすぐ、私はヘルパーの資格を取った。もちろんモラハラ男には内緒で。

ある日、電話で罵倒されていた最中モラハラ男から「離婚」と言うキーワードが出た。今までの結婚生活の中でこの言葉は何度も出ていたが、それは彼が私を困らせる為に脅す常套手段だった。そしてモラハラ男は私が今まで絶対離婚しないと言い続けていたので、安心して今回も脅しのつもりでその言葉を出したのだ。
空かさず「分かった。離婚しよう」と言う私の返答に戸惑いを隠し切れない様子で、あんなに捲し立てていたモラハラ男の口から次の言葉が消えていた。

娘をお腹に宿した時に決断した「離婚」が、7年の時を経て今ようやく実行に移せる時が来たのだ。

この瞬間をどれほど待ち望んでいた事か。
離婚するつもりがある事をモラハラ夫に気付かれ無い様、私は絶対に離婚しないと思わせていた。
モラハラ男が居ないと何も出来ない弱者だと思い込ませていた。
別居中に出来る限りのへそくりを貯め、資格も取った。
モラハラ男の浮気の証拠もしっかり持っている。

全ての準備は整った。

女って、強か(したたか)だ

正式に離婚届が受理されるまで気が休まらなかった。何をするか分からない相手だったから。モラハラ男が離婚届を受理しないと言う手続きを先にしていたら、離婚は成立しないのだ。

念には念を、、、。私は離婚届を郵送せず、東京へ行くと言う父に代理人になってもらい、目の前でサインさせ、父の手で役所へ提出してもらった。

離婚が成立したのは、奇しくも息子の6歳の誕生日だった。
結婚記念日と離婚記念日は必然的に忘れられない日となってしまったw

その頃、占い師にも心境の変化があったらしく、私の感性が自分とそっくりだと言う事を話した。今までにそんな人に会ったことが無いと。二人は恋愛感情が無いまま、実験的に付き合ってみる事にした。

私は離婚成立の翌月から働き始めた。『シングルマザー』『母子家庭』の現実が動き出した。子供達は校区外の小学校へ通っていた為、バス通学だった。
通勤のサラリーマンと一緒にバスに乗って通学していた。私も職場の勤務開始が早かったので、同じ時間に家を出て帰宅は18時〜19時の日々。

平日は子供達の宿題やら学校行事のプリント類のチェックと提出物の準備。同時進行で夕食作り、洗濯、掃除、子供をお風呂に入れて、食の細い子供達に何とか夕食を食べさせる。9時には寝る様に寝かしつけをしながら寝落ち。夜中に目が覚めて洗濯物を干すなど家事の続きを始める。
それで手取りが11万円程度。
それでも働き続けなければ生きていけない。

養育費をもらうつもりは無かった。兎に角モラハラ男と縁を切りたかったのだ。
その代わりと言うか、モラハラ男が毎年私の誕生日にプレゼントをくれており、毎年その額が大きくなっていた。それはモラハラ男が自身に課したプライドとでも言おうか。そう出来る夫で居たかった様だったので、やりたい様にさせておいただけなのだが。

私へのプレゼントとして私名義でマンションと車を現金で購入済み。家賃は管理費を払うだけだったので、住む所と足には困らなかった。
モラハラ男の見栄のお陰で、私たちはひとまず生きていく事ができた。


『弟子たち』の中に、占い師を心の拠り所にしていた一人の女の子がいた。
元々『弟子たち』に関心が無かった私は、彼女についても知ろうと思わなかった。
付き合い始めて数年後のある日、占い師が言った
「その女の子と付き合ってみようと思う。ポリアモリー(複数人を同時に愛する)が、ゆみとなら築けそうだと思う。」
突然の言葉に多少驚いたが、直感で「出来そう」と感じた。しかしそれは、私は出来そうなだけであって、ポリアモリーとはそもそも互いが双方向性の愛を持っている関係なので、占い師とその女の子が出来るかどうか、そこが問題だと言う事も分かっていた。

そう思い至る理由は幾つもあるが、まずその女の子は、既に私に対して嫉妬していると言う現実があった。そして私は彼女に全く関心が無い。この時点で既にポリアモリーは成り立たないと言う結果が見えている様だが、占い師は実験をしたかったのだ。私はそれを受け入れるだけだった。
占い師は、平日は女の子の家へ泊まり、週末は私の家という生活が続いた。


そんな生活の中、私たちは戸建に引っ越す事になった。
以前から、占い師は『自給自足が出来て、弟子たちが集まって住める様な郷を作りたい』と、それらを実現できる様な物件を探していたのだ。ある日、不動産ネットサイトで”No Image”の物件を見つけた。
湧き水・池・500坪の敷地の物件が車で15分ほどの近場にあったので、不動産屋さんと連絡を取り、一度見学してすぐ購入が決まった。
古い戸建だったのでフルリノベーションが必要で、引っ越し出来るまで4ヶ月ほどかかる見込みだった。


ある日、娘が占い師と口喧嘩を始めた。
私はキッチンで洗い物をしながら話に聞き耳を立てていた。娘は気が強く言葉も非常に攻撃的だった。占い師は娘の言葉にキレて、座っていた娘を蹴飛ばし、娘は泣いた。
私もよく娘の言葉に頭にきて叩いたりしていたが、占い師がするのとは全く違う結果になる事は大人でなくともわかる事と思う。
しかし、占い師はキレてしまった。

その後、私は子供達と3人だけの時間を過ごす為、占い師に「暫く女の子の家で暮らして欲しい」と伝え、了解してくれた。
それからと言うもの、私たちは本当に久しぶりに楽しい穏やかな休日を過ごした。
子供達の行きたい所へ連れて行ったり、公園で一緒に遊んだり。私より17歳年上の占い師と過ごす週末には無い動き方だったので、私も子供達も非常にリフレッシュしていた。

そんな楽しい週末を過ごす様になって2ヶ月ほど経った。その間、占い師から何度か「まだ戻れないか?」とお伺いを立てられていたが、子供達が「嫌だ」と言うので泊まりに来るのを拒んでいたのだ。

その頃、娘は夏休みに離婚後初めて父親の元を訪れており、冬休みも行く事になった。
空港で、私は息子の手を繋いでいた。ゲートをくぐって行く娘の後ろ姿を見送った。精一杯の笑顔で。あの時、私が泣かずにいられたのは、手を繋いでいてくれた息子が居たから。とてつもない不安が私を襲っていた。

娘が旅立った後、占い師が戻り、私のお腹に新しい命が宿ったことを知った。

こうして家族の形も生活の場も、全てがトランスフォーマーの如く音を立てて変化していった。


波乱の人生〜修行時代②〜へつづく

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