伝えることについて私が考えること

「読んでわかりやすく、ためになるテキスト」の極北、ナンセンスの極地にあるような、いかにもnoteらしくない文章を書いてみようと思う。

最近また音楽が書けるようになって来ている。最初に作ろうと思ったのはいつのことか遠すぎて思い出すのはもう難しいけれど、10代の終わりに体調がとにかく悪く他にもう何もできないくらい頭が回らない状態で、ろくなインプットもアウトプットもできないような状況でも音楽だけは聞いて作れた。そこでもし、何かもし良いものが作れたとしたら、朝起きて夜眠れない、本も読めないし映画も見れない。とにかく12-15歳頃から徐々に進行している体調不良から勉強もできない。という真っ当な社会生活からは程遠い自分でももうすこしだけ生きのびれるかもしれないという淡い願いがきっかけだった気がする。好きなものを伝えたいというような健全なメッセージではなく、叫び声に近いようなものだった気がする。

電子音楽はYellow Magic Orchestraとm-floとMONDO GROSSO等くらいしか知らない。なぜこの組み合わせなのかというと、能動的に調べてレンタル店を掘り返してたどり着いたわけではなく先輩や友人に教えてもらって知ったものばかりだからだ。調子が悪い時期に10代の前半は覚えることくらいしか脳がない人の記憶力という記憶力は徐々に薄れてティーンエイジが終わりを迎える頃に吹き飛んで消えてしまったので、アーティスト名と曲名と時代背景と音楽そのものの情報を覚えられないおおよそDJ向きとは言えない頭になってしまった。口頭で名前を聞いたところで、自分がかつてオススメしたことのあるアーティストを思い出せない程度にはひどい。

「Geoge FitzGerald...誰だそれ?えっ、以前私が勧めたことがあるのになんで知らないのかって?(iTunesを開いてRecently Addedを確認し音を聴く)ああ、あの黄色いジャケが最新作のあの音の人ね。」

といった具合だ。これは今でもコンプレックスの一つとしてある。作曲をするにあたって、サウンドの質感や楽曲構成などが全て"オンメモリ"、すぐ思い出せるような状態にあって探索できる状態にないと過去のアーカイブをリファレンスすることによってのみ生まれる音の深みなんて当然のことながら出やしない。したがって、おおよそ作曲にも向かない頭とも言える。

口から湯水のようにアーティスト名や楽曲名、文化背景にまつわるストーリーが溢れ出るDJにはいつもただただ尊敬の念を抱く。私も本当は共通の好きな音楽をどこかで聴いているはずだけれども、でもそれが誰によって作られて、どのレーベルから出ていて、どういう文化背景で生まれたものなのか、それについてどう思うのかといった知識をもとに会話ができないのは、もともとおたく気質な人にとっては少し寂しい。

記憶力がとにかくなくて音が作れない、ならデータ圧縮をすればいいというような発想でアーティスト名と曲名を覚えることを放棄して、ひたすら楽曲を調べて聴く採掘作業をすることにしてからいくらか経った。その上で、2〜3のスナップショットだけを覚えて質感と雰囲気を押さえた上で楽曲構成とコード、メロディ、時間感覚などの物差しを曲に当てて軽くしたものだけを覚えておいて再利用すればいいと。そしてそれを再構成したあとに、デザイン的な、単一の質感に落とし込む私自身が勝手に"Ultrapop"と読んでいる手法に落とし込んであげれば賛否があるあの特徴あるヨシボサウンドの出来上がりとなる。あとはひたすら質感を出す最後のアレンジ部分を調整してあげればいいのだが、たとえばテクノに出てくるような非楽音は曲をマイニングするときに捨ててしまっている。なのでアレンジ部分でも同じ音は出てこない。この辺の解像度の低さが統一したデザイン的質感(流行りのインスタグラマーのような)を作り出すと同時に、同時にヨシボサウンドの深みの限界にもなる。ただただ、拾い続けるしかない。

音を実際に作る方法については工夫してできるようになった。では何を表現するのか。心の叫びか自分の好きなものなのか?今度はそれが壊れてしまっていてよく思い出せない。衝動的で激しい感情はもはや湧かないし、好きな音はありすぎて何が好きで何が嫌いという、人、特にアーティストに必須の最強のフィルターで絞り込むこともできない。かといって、音がどのように流通してそれがリスナーやDJによって回収されて、さらにそれが表現を産んでという一連の営みの中でこの自分の作った音が音楽的役割を担うかというネットワークをイメージするだけの想像力もないので戦略的にも動けない。
かつてあった理解したいという気持ちも薄れて来て、ただただ音を組み替えて、意図した通りに鳴った時が楽しいという内向的な姿勢によってのみ音楽に向き合えていた。

しかし最近、楽しんでもらう音楽を作ることもそんなに抵抗がなくなって来たというのを感じる。人の音楽でフロアで踊って居るのは楽しいので、楽しんでもらえるのも良いなと思うようになってきた。自分が作っていて楽しい音楽と楽しんでもらうための音楽。どちらも良いじゃないか。今はそんな二つの気持ちが混在している。好きな音楽を伝える、作る楽しさを伝えるのがありなのであれば、楽しんでほしいということを伝える音もありかもしれない。

話は変わるが、最近知人友人が結婚したというニュースをよく聞く。ポジションをとって社会に関与して頑張って来た人たち。並々ならぬことを成し遂げた人たちに対して心からおめでとうという気持ちでいっぱいになる。

一方で私は何も得ていないか、はたまた失ってしまった。何においても自信が持てずに、ポジションを取れないまま、ただ療養という名の下に無為な時間を過ごしてしまったことへのむなしさと、体すら思い通りに動かせないという現実を直視するとやるせなさで溢れてしまうので気持ちを押し殺して生きて来てしまったことへの反省もある。しかし、みすみす全てを手放してしまうつもりもないので、限られた状況の中で何ができるのか今一度やってみようと思う。いま、伝えたいことを形にすればそれでいいはずだ。



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