「君の名は。」と「天気の子」(ネタバレ:加筆修正)

おことわりのおことわり(7/22追記)

令和元年7月22日、さっそく2回目を観てきました。周りから気持ち悪がられました。
すぐに2回目を観たおかげで、冷静に捉えつつ、思い違いを含めて色々と整理することができました。
また、確かに2回目を観る前までの私は気持ち悪かったです。そこも整理できました。
以下、見え消しで修正しようとしたのですが、noteだと取消線などを出すのが面倒なようなので、加筆は段落を分けて行い、その段落の頭に「→」を付けます。セルフツッコミみたいになりましたが、世に誤解を撒き散らし続けるのも情けないので。
(誤字脱字もしれっと直しました。)

おことわり

本日「天気の子」を観てきました。
本当に考えたいことは色々あるんですが、何よりもかによりもタイトルのとおり、「君の名は。」と「天気の子」の関係性について話さなければ、ほかの話を始められません。そういう感想文です。
それから、両作品ともネタバレを気にせず書きます。まだ観ていない人は読まない方が心のためです。
さらに、両作品の時間軸等の考証は、冒頭3分の1で多分終わっています。そこから先は妄想じみたものだと自覚しています。まだ1回しか観ていない人は読まない方がやはり心のためです。
読ませる気がなくてすみません。でも書いて吐き出さないとどうにかなりそうで、そのため、書きます。

考証(1):設定と登場人物

まず、「天気の子」には、「君の名は。」の登場人物がこれでもかというくらい出演します。瀧くん(年齢不詳)に三葉(社会人になっている)、てっしーにさやちん(もう付き合っている※)、四葉まで。しかも瀧くんのおばあちゃんらしき人。おまえは誰だ?
※さらに、さやちんは、後半で帆高が池袋警察署から逃亡する時、警察署の入口にいた気がします。引っ越してきて免許の書き換えにでも来たのでしょうか。

それから、冒頭に「ムー」が登場しますが、そこに隕石の記事が出てきています。厳密に確認できていませんが、おそらく糸守湖に落下した隕石と、それにまつわる様々な都市伝説を扱った記事であったと考えて差し支えないでしょう。

そうすると、「天気の子」は「君の名は。」の世界観と地続きだと考えることができます。

→と、思いましたが、下記の「時間軸」を整理し直した結果、両作品は地続きとは言えません。あと、お前は誰だとぶしつけに聞いてしまったおばあちゃんについても整理します。むしろキーパーソンじゃないか。

考証(2):時間軸

この点、「天気の子」の時間軸が厳密に確認できていませんが、令和3年度(2021年)に入学した(という写真を刑事が提示していた)帆高が現在は16歳であるとすると、世界は2021年(帆高が高校1年)か2022年(高校2年)ということになりますが(カレンダーを確認し損ねた。悔しい。)、

→ということで、全力で確認をしたところ、本当によくもまあ見落とすなと自分でも悲しくなったのですが、劇中のツイッターなどでがっつり「2021年」と出ていました。
(ツイッターだと普通、しばらく経ったツイートを振り返る形でないと具体的な年月日は出ないのですが、あえて日付を出そうとした演出でしょうか。)
また、帆高がネットカフェで見ていたスマホの「6月15日火曜日」なる表示からも確認できます。
そうすると入学してすぐにこのような逃避行に出たのですね。びっくり。小説版を読んだら謎が解けるのでしょうか。

「君の名は。」では2013年に隕石が糸守湖に落下、その後、瀧くんが就活に苦しむ大学4年ラストでは、隕石が落ちてから8年後である2021年に飛び、その後、2人が出会うラストシーンは2022年春と考えられます。

しかし、「天気の子」では、その年の夏以降、世界がどうなったかというのを考えると、2022年春の東京が「君の名は。」のラストで描かれていたような穏やかな春を迎えていたとは考えにくいものです。
(考えながら思い出して「君の名は。」のラストシーンを見たら、水たまりがあり、雨上がりのようでした。この先は考えると怖いのでやめます。)

→2021年であることは確実なので、やはり2022年春の東京は(それどころか、瀧くんが就活に苦しむ2021年秋もなお)あのような穏やかな季節を迎えていたとは考えにくいです。

すると、あの世界では、2022年春に「君の名は。」の登場人物たちが一種のハッピーエンドを迎えた直後、2022年の梅雨を迎え、「天気の子」の登場人物たちの葛藤が始まる、と整理することができます。

→ということではなく、両作品は、まあ強いて言うならパラレルワールドということになるでしょうか。
まさに「君の名は。」と「言の葉の庭」でいう、ユキちゃん先生の関係ですね。
ただ、以下で引き続き書き残すように、もう少し両作品のパラレルな関係は根深いと思っています。

妄想(1):「君の名は。」のモヤモヤ

上記の整理を、こう言い換えることもできます。

過去を捻じ曲げてでも1人の少女に会いたくて、なんとか会うことができた「君の名は。」の世界が、世界の形を捻じ曲げてでも1人の少女にまた会いたくて、なんとか会うことができた「天気の子」によって、本当に捻じ曲げられてしまった。

え、怖い。怖い怖い超怖い。3年越しでやるのそれ。しかも自分で。

→というのも、若干再考を余儀なくされます。「君の名は。」の世界が直接捻じ曲げられた、という訳ではないですね。あの「君の名は。」の世界は、それはそれで厳然と存在し続ける。ああ安心。
ただ、先程述べたとおり、両作品の関係がそれだけ、というのは腑に落ちません。いくら何でも前作の登場人物が出過ぎます。続編じゃないんだぞ。しかも、瀧くんのおばあちゃんまで出してくる。離れ業、反則技と言っても良い。
すると、どうしてもやはり「天気の子」が「君の名は。」に対応したものであって、だからこそ強く「君の名は。」を思い出させて、あまつさえ「君の名は。」代表として深く食い込む存在として、おばあちゃんを出したということかなと思ってしまいます。
その点も含め、以下、前回書き殴ったものを引き継ぎつつ、修正します。

この観点をさらに推し進めた時、見えてくるのは、私が「君の名は。」を最初に観た時に感じたモヤモヤでした。

「君の名は。」は、全くのフィクションとはいえ、公開時期にしても、「復興庁」のテープが貼られた被災現場にしても(こっちは私だけかもしれませんが)、東日本大震災を基点にして生まれた作品だと認識しています。

しかし、そうすると、実際に東日本大震災は起きてしまい、これはもうどうしようもなく取り返しがつかない被害が現に出ているのに対し、糸守の彗星災害は、ただ人的被害だけでもゼロにして取り返しをつけてしまったことになる。
本当にそれで良いのか、と、私は考えました

そういう取り返しのつかない、立ち向かいっこない現象に対して、それでも人間はどう相対していくべきなのか、考えるべきじゃあないのか。それを放棄して前提を覆して、文字通りの夢物語を描いて良いのか、そういうモヤモヤが残ったのです。

もちろん、そもそもそういう作品じゃないんだからそういう見方を持ってくるんじゃない、というのが正論だと思います。
だったら、同時期に公開された「シン・ゴジラ」を楽しんでいれば良かっただろ。おっしゃるとおりです。
そして、もちろん前提を覆して、何とかあの人を守りたい、と思う気持ちも分かります。

だから、この違和感が普遍的だったとは思っていません。
しかし、今回の「天気の子」は、それに対して明確に返事をしてきた気がしてならないのです。

→これを書いてから「天気の子」のレビューを色々見たら、この違和感に触れている記事だらけでびっくりしました。当時も色々あさったつもりだったんですが、同じ感覚の人がそんなにいたんだということにびっくりしました。ひねくれ過ぎでしょ世の中。

妄想(2):モヤモヤに対する「天気の子」のアンサー

その返事というのは、次のとおり。

いや、生き返らせるんです。そこから話は始まるんです。
世界の形を捻じ曲げてでも、彼女は生き返らせるんだって言っているでしょう。

もっと意地悪に想像すると、

そこまで言われたので、お望みどおり、取り返しのつかない代償を提示してみました。

という返事。ここで言う「代償」とは無論、雨が続くことです。

むしろ、もっと意地悪に、そのモヤモヤを新海誠監督が自覚していたとしたら、

「君の名は。」では、それまで新海誠監督の評価の核となっていた「美しい風景」の描写を逆手にとって、敢えてその美しい風景によって命が奪われるストーリーを生み出しました。(劇中の何も知らずに中継するテレビと空を眺めてはしゃぐ一般市民は、観客の姿だったともいえます。)

→ちなみに、別記事にまとめることとしますが、「天気の子」はまた同じことをやったと私は思っています。もはやトラウマ。

そして「天気の子」では、前作の「ああ、無事に助かって良かった」、「一度起きた悲劇を何とか防ぐことができて良かった」という感動を逆手に、本当にそう易々と世界も1人の命も救われる訳ではない、選ばなければならないという展開を生み出したといえます。(劇中で少女の犠牲を知らずに晴れの光を享受する(そして次の瞬間には水没に見舞われる)人たちもまた、観客の姿になるということでしょうか。)

かつ、その上で、「天気の子」では、「君の名は。」と同様に、一度失われた命を何とかして取り戻した上で、帆高は世界を捻じ曲げたという自覚を改めて持ちました。周りから自惚れるななどとも言われたにもかかわらず。

ですので、返事を付け加えるとすれば、

お望みどおりにした上で、取り返しのつかない代償は取られましたが、それでも世界は回っていくし、人間は生きていくし、彼らは決して逃げたりしない。

という反論をしてきているように感じました。

妄想→私なりの結論:「世界を変えながら生きていく」

→ここで堂々たる登場、「君の名は。」代表のおばあちゃんこと立花冨美は、水没した下町を引き合いに「世界とは、もともとそういうものだったかもしれない」という、先程も触れた、「お前のせいで世界がこうなった訳ではない」という(無自覚なものも含めた)慰めを、最初に切り出します。
彼女は、その役割を担うために登場したのだと考えると、登場の唐突さもなくなります。

→「君の名は。」の時、私のような奴らから散々「自然への冒涜」という批判が投げつけられたのかもしれません。その批判の基礎には、自然(あるいは、世の中、社会、この「世界」)に翻弄されるのが人間である、という見方があります。

→しかし、では「自然」とは何か。
異常気象を「史上初」という言葉でくくる人たちが、劇中、気象神社で一蹴されます。自然とはどうあるべきなのか(それも短い経験則から導き出した推論)で、自分とは切り離して捉えること自体が、おこがましいのかもしれません。

人間だって自然の一部であり、この世界の一部である。決して誰も切り離すことはできない。
人間の「愛」だって、当然そうであって、だから、私たちは愛によって、世界の形を決定的に変えることができる。
そして、決定的に変えながら、隣に立つ人とともに、世界とともに生きていかなければならないのだ、生きていくべきなのだ。

→(セカイ系ってこういうことだったのか……)

→新海誠監督がこういうことを言いたがっている、とはとても思いませんが、そうすると、この作品がストンと腑に落ちますし、私が、素直にこの世界を愛することができる気がしてきます。

→また、こういった背景の哲学めいたものでなくとも、帆高が周りからあれだけ言われながら自ら世界を変えたという自覚と責任を持ったのは、本人にとってはそれしかあり得なかったはずです。
彼がそのことを独白するのは、陽菜の姿を数年ぶりに見たその瞬間でした。
すなわち、彼が愛する人を選ぶことで世界の形を決定的に変えてしまったのであって、世界の形の変貌は自然の成り行きだなどと整理されては、彼が自ら愛することを選んだこと、愛する人を見つけたことを否定することになるからです。

予防線

ああ、ここまで書いてきましたが、だんだんと映画の記憶が薄れてきたので不安になってきました。もともと私が勝手に抱いていた疑問に対して、真っ向から返事が来るとはとても思えません。
だから、冒頭から3分の1を過ぎた辺りからは、割と妄想じみていますと冒頭にも書きました。

そんな恐ろしいことをするでしょうか。いや、そんなことは。きっと。

また月曜以降に観てきて、どうか、どうかそうでないことを祈るばかりです。

→予防線張っておいて良かったー!!! 前半まるっと妄想じゃん!
妄想でした。ちゃんと「君の名は。」の世界はある。改めて安心。とはいえ、以下、前回に書いた内容そのまま。この感想はそのままです。

しかし、キャラクター造形にしろ、「君の名は。」の登場人物たちの出し方にしろ、ストーリー(設定の提示の仕方)にしろ、「天気の子」は、「君の名は。」の(世間の評判を投影した)セルフアンサーだとしか思えないのです。
だとしたら、あの終盤の展開がある時点で、もう、なんというか、最高です。

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