「チェーホフの銃」とは普通をめぐる理屈である(性的志向・性自認と物語について-1)

「チェーホフの銃」とは、普通をめぐる理屈である

タイトルについての話ですが、最近、手元に流れてきたツイートを2つ並べます。

これらを踏まえて、いわゆるLGBTといった、性的マイノリティの物語での描き方について、「チェーホフの銃」を中心に、(1)「チェーホフの銃」の妥当性と趣旨について、(2)妥当性があるとすれば、性的指向や性自認の話は「チェーホフの銃」に即せば描く必要がなくなるのか、(3)描く必要がなくなるとすれば、本当にそれで良いのか、という流れで話をしようと思ったのですが、結局(1)の話しか書けませんでした。
ただ、これで本来書こうとしたことの大半は書けた気がします。

すなわち、「チェーホフの銃」とは、もうこれ以上なく、「普通」をめぐる理屈であるということです。

「チェーホフの銃」について

Wikipediaでは、次の2つの定義が並べられています。

「ストーリーの早い段階で物語に導入された要素について、後段になってからその意味なり重要性を明らかにする文学の技法。」
「この概念は『ストーリーには無用の要素を盛り込んではいけない』という意味であるとも解釈できる。」

私もそうですし、上記のツイートをめぐる議論も、後者の理解に基づいているのではと思います。以下、これ以降も、基本的には後者の理解に基づいて話をしていきます。

また、この発想の基礎には、チェーホフの次の言葉があるとされます。

「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである。そうでないなら、そこに置いてはいけない。」

この点、チェーホフが生きた帝政ロシアがどんな世界だったのか寡聞にして知らないため、銃がどれほど一般的だったのか何とも言えません。
現在の米国よりもポピュラーで、一人一丁拳銃を持ち、家族用に立派なライフルを持つ世界だったのか、現在の日本よりも縁遠く、そもそも一見してそれが「銃」というものなのか理解できないような世界だったかもしれませんが。閑話休題。

ミステリ的、演劇的な発想

「チェーホフの銃」は、Wikipediaでの説明が既にそうですが、ミステリを作る上での理論と捉えると一番しっくり来るんだろうと思います。
例えば、ヴァン・ダインの二十則にいう「余計な情景描写や、脇道に逸れた文学的な饒舌は省くべきである。」のようなもので。
「ミステリ」というジャンルの目的は(過言かもしれませんが)、謎を解くことです。
読者/観客は、謎を解きたがり、また、謎がぐうの音も出ない形で解かれることを望んでいます。作中に出てくる登場人物の言動が、出てくる事物の詳細が、どのように謎の解決につながるのかを期待しています。
それなのに、出てきた物事が実は何も関係ありませんでした、と言われてはたまらないでしょう。「何のために出してきたんだ!」と言いたくなります。

また、チェーホフが劇作家だったということからしても頷けます。
演劇は、全く何もなかった空間に芝居を立ち上げるために舞台や小道具を用意することになりますが、当然全く現実と同じ空間を作り上げることは至難です(し、個人的にはそれをするなら演劇という手法をとる意味があるのか、と思わなくもないですが)。
そういった、必要なものしか置きようがない環境だからこそ、物語に関係ないものは出てきてはならないという発想に至りやすかったのかもしれません。
観客が、あえてこの舞台上に出してきているものなら、きっと使われるはずだ、お芝居にとって必要なものなんだ、と思ってくることに応えなければならない。それなのに全く使われることがなければ「何のために出してきたんだ!」と言われてしまいます。

けれどもフィクションに共通する発想

そして、この「何のために出してきたんだ!」という反発は、フィクション作品には共通するものだと思っています。
程度の差こそあれ、ミステリの「流れにしたがって話を展開させる」という要素と、お芝居の「0から立ち上げる」という要素を、フィクション作品は共通して併せ持っているがゆえです。
作品の根幹、核となる部分が上手くいっていても、思った形で受け取ってもらえないがゆえに、作品の根幹、核となる部分が評価されないことがある。
それを避け、せっかく作ろうとしている物語、世界を正しく伝えるために、「物語に関係のない物事、展開、属性で受け手を惑わせてはならない」という教訓、「チェーホフの銃」は存在する。

これ自体は至極真っ当なことだと思います。
そして、こう言い換えることもできます。

「敢えて物語に描かれた物事、展開、属性は、作品の中で活かさなければならない。」

とかく、受け手は理屈を求めますしね。
(最近「天気の子」で、冷静に考えたらその解釈にいくらでも反論できる材料が転がっているのに、謎が謎のままがゆえにその謎たちをどうにか結びつけて解決策っぽい解釈をこしらえる手法が流行っていて、本当にそうだなと。)

「チェーホフの銃」の射程

しかし、では何が「物語に関係ない」ことなのか何が「敢えて描かれた」ものか、という疑問が生まれます。

極論を言えば、物語に人が登場すること自体も敢えてやっていることですが、だからといって「あっ! 人だ! 人が出てきたということはーー」とか考えることはなく、むしろ人が出てこなければ「あえて出していないんだな」と受け手は思うでしょう。

その境界を区切るのは、散々言ってきた、何を「普通」だと思うかです。
「普通」という言葉も非常に使い方が難しいのですが、基本的には辞書に「特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。」とあるとおりでしょう。付け加えるとすれば、その「ありふれている」や「当たり前」という評価の基礎には、その評価がほかの者と共通しているはずだ、という認識も潜んでいるという点くらいでしょうか。

受け手が「普通」だと思うことをやっていても、トートロジーっぽいですが受け手はそれを当たり前だと思っているわけですから、それについて格別考えを巡らせることはなく、そこに「敢えて描かれた」という発想を持つこともないわけで。

と言いますか、物語は、その「普通」を外れることに面白さがあるんだと思うんですけどね。
別に本当に「普通」を見たければ現実を緩慢と生きていけば良いだけの話です。

ということで、流れを整理すると、物語において、まず「普通」を措定して、「普通」から外れたものが出てくると、それは「敢えて描かれたもの」と捉えられ、「チェーホフの銃」の理論が顔を出す。

「チェーホフの銃」の射程、すなわち物語に出てくる何かが「銃」になるかどうかは、それが物語において「普通」かどうか、です。
この点は譲れません。

あとがきみたいなもの:「普通」って本当に何だ

勿体つける話でもありませんでした。ここまで読んでくださった方は何を当たり前のことをと思われたかもしれませんが、何と言いますか、ここまでのことすら既に「普通」のこととして共有できていない気がしてならないのです。

本当に、この「普通」の措定がもう投げ出したくなるくらい本当に難しい。
「普通」が揺らぎ、「普通」が相対化している。
もともと、万人が共通の感覚を抱いている訳もなく、当然「普通」には誤差があったわけですが、その幅がここ数年でぐんと広がった気がします。

そして、「普通」という言葉からは、「普通ではない」ことへのプレッシャーがどうしても拭えないのもあって、正直さっきから「普通」という言葉を使うたびに身構えてもいるんですが。ただ、それでも「普通」に関する話なのだ、という点を整理する必要があると思いました。

それを整理したので、ここからは、最初に書いた流れで言うと(2)からの話になりますね。これは、また元気があるときに。
ざっくりと言えば、この理屈に対する、性的マイノリティの当てはめの話です(当てはめられるのか、当てはめて良いのか、当てはめたらどうなるのか。)。あるいはさらに、物語における「普通」は、現実の「普通」と一緒なのか、一緒で良いのか。一歩先を行けば良いのか、行くべきなのか、それから「チェーホフの銃」という創作技術にこだわって創作することの是非、辺りになるでしょうか。

【この続きです。】
「チェーホフの銃」における「普通」とは何か(性的指向・性自認と物語について-2)(令和元年8月25日付け)
https://note.mu/yossiken/n/n6f8c3bbb1b65

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