自分の中で暴れる「正しさ」が、他人の「正しさ」に挑む条件

秋に心と書いて愁、色々と慮る環境(慮ることができるのか、慮らされているのか)

考えを巡らすことで発散されるアイデア、対立するアイデア、収束するアイデアを通じ、ある程度の深みと広がりを備えた、ひとつのまとまりが出来上がる。
いや、まとまりが出来上がるのではなく、まとまりに「なったこと」としているのかもしれない。それは到底自己認識できるものではなく、そのまとまりを見ようとする行為自体が自己批判的であり、許容し難いものである。ここでの議論は放棄する。

まとまりの形成には幾らかのプロセスがある。
ひとつは、他者のアイデアの「要素」を複合した、曖昧かつ心許ないオリジナリティを備えたもの。所謂「パクリ」の集大成である。
ひとつは、感情の赴くままに身(アイデアの行末)を任せ、「嫌なものは嫌!好きなものは好き!」という最もシンプルかつ身勝手な判断装置に、要素を当て続けるという作業。
秋はおそらく後者が盛んになるのだろう。

一見すると感情は落ち着いている。
「哀愁」という衣に適合した、と言えばいいものか。
どこか季節的、環境的、外的な働きによって、「秋という季節は落ち着いて物思いに耽る、耽思(たんし)する」という、一種の理想的かつこうあるべき像に向かってしまっている。
一見すると、だ。
実のところは、外界に向けて「こういう状態である」を表現することすら不可能(作為的ではない行為であるが)な状態だ。いや、「こういう状態である」を表現し、他者からの作為的な働きかけがあることを、本能的に敬遠しているとも取れる。
それ程に自分自身に矢印を向けているのだ。
この矢印で自らを攻撃し、苛み、戒め、刺しまくる。虐め続け、それでも尚往生際の悪くこびりつき、ゴキブリのような生命力を発揮してしまったものこそが、まとまりとなって現れる。
非常に辛い。

こうして発生したまとまりを、どのように用いるか。
まとまりに至るプロセスが残酷かつ平易なものでない以上、表現しないという選択を取るには相応のエネルギーを必要とする。
つまり、まとまりの存在が自らの人生をハードモードに設定してしまう。一度クリアしたものならば良いが、攻略本や裏技のないゲームで、チュートリアルすら素直に読めない環境で、ハードモードに設定する。頭の悪い。

まとまりを表現するにあたりハードモードたる所以は、まとまりとの衝突である。
形成にあたり多くのプロセスを踏んだ以上、相応たる自信を備えている。発端人である者でさえも、簡単に否定できるものではない。
洗練されたまとまりになるほど、鋭く尖った、時に凶器(狂気)となる”恐れ”の監視下におかなければならない。

その"恐れ"がコントロール不能となり、真っ向から他のまとまりに挑む条件とは、一体何か。
一つは知り得ない世界との比較。
自分が「知らなかっただけ」となる可能性の問題だ。詰まるところ、まとまりの形成プロセスに不足が存在したことを認める行為である。
一つは「正しさ」と衝突した場合である。
まとまりが「正しさ」と接触した瞬間、まとまりではなく「正しさ」に変容する。両者の違いは「なるほど、そういうまとまりもあるのか」と許容できなくなることだ。

まとまり以上に厄介な「正しさ」に変容した以上、さらに厳重な"恐れ"の監視が必要になる。
それさえも管理できなくなってしまう条件は、一体何か。

結局、秋の所為ににしてしまうのが、楽なのかも。
責任放棄。

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