恨みのある親を代わりに叱ってくれる人があったときに忘れてはいけないこと2点

こんにちは
よっしーです。

いきなりディープな話ですが、皆さんは親に恨みがあるほうでしょうか。
僕は今では自分を見つめることでそうでもなくなりましたが、以前はかなり「俺が正しい、何なんだこの親は!」みたいな感情を抱いていました。
絶対実家から離れたいという一心で大学受験もがんばれた気がします。

実は以前通院していた精神科の主治医が、そんな僕の親を叱ってくれたことがあったのでした。
もちろん、親を目の前にしてではなく、診察室で僕と1対1の時です。

「2人のこどもを精神疾患にしておいて、およそ教育者とは言えない親だ!(ウチの親は2人とも教員)」
「普通の親ならまずちゃんとこどもの話を聞くもんだ」
「父親の暴走を止めようとしたり、後でフォローしたりしない君の母親にも弱さがある」
「反省の色も見せていないのか!」
などなど…

この時、やっとわかってくれる人がいてくれた、と本当に気持ちがすっきりして、やっぱりうちの親は普通じゃなかったのか、と正直思ったものでした。

しかし、このように叱ってくれるのは「代わりに」であるべきで、私たちこどもの立場からは、言えないことではないかなということについて2点思ったことがあるので忘れないように書いておきます。


1.1億総中流時代の日本の親のもとに生まれた人は、ほぼ必ず親に恩がある

高度経済成長末期の昭和の時代は一億総中流社会とも言われ、みんな所得などが中の中くらい豊かであったといいます。
僕は1990年代生まれで、不景気が始まった頃とされるようですが、そうはいっても先進国なので衣食住、何不自由なく育ててもらうことができました。


さて突然、次のようなことを言われたらどうでしょう。

「この人に約20年間くらいの全ての生活費、学費を無償で提供し、医療費も全額負担してください。
はじめの頃は病気にもなりやすいですが、もし、死なせてしまったり、犯罪を知らないうちにこの人が犯してしまったら、あなたはジ・エンドです」

「え!? コレなんのデスゲームのミッション!?
てか20年も!? 絶対、自分の自由なくなるやん!」
てなりませんでしょうか。

「親ならそれをやって当たり前だよ」と親は言ってくれるかもしれませんが、私たちこどもの立場からは決して当たり前と思うべきではないと、心にとどめておいた方がいいでしょう。

僕だったら正直、できる気がしません。

ですが、今、大人になって生きている人は、親に20年かそれ以上やってきてもらったというのが事実なのです。
口できれいごとを言うよりも、お金を提供するほうがはるかに大変だし、本気であることの証明になります。

結局、親の恩を感じろというありきたりな道徳の話かと思われるかもしれませんが、それは「感恩」といって、その前に「知恩」が必要です。
恩については次のようにレベル(?)が上がります。

知恩 → 感恩 → 報恩

これは個人的な感想ですが、感恩までいかなくとも、知恩の努力がまずできたならすばらしいのではないかと思います。
つまり、どんな恩があったかの理屈や事実を理解することです。

逆に、感情だけの恩というのは根っこがなく、一過性なのではないかと思います。「ノリ」はいいでしょうけども。
しかも、感情だけの恩は、単に「記憶にあるから」感じているだけであって、記憶にない部分にもしかしたら大変な恩があるかもしれません。

記憶なんてのは、物理的な脳の機能ですから、その機能だけに頼った「感恩」はやはり「ノリがいいだけ」のような気がします。

それでは論理に一貫性がなくなる可能性があります。
ということで、感恩も大事ですが、知恩をしっかりしておくのが大事なのでは、という話でした。


2.相手の事情を知る or 調べる

昔、昭和の時代のようですがこんな話があったようです。
ある時、電車が急停車したことで、柱に頭をぶつけてしまい、大泣きしだした子供がいました。
その時の母親の対応は「痛かったね」と、子供に共感しいやしを与える、まずここまでは普通のように思いますが、その次の対応がすばらしいと伝わっています。
「坊やも痛かったでしょうけど、この柱も痛かったのよ、いっしょにさすってあげましょうね」

こういう時、「こんな所に柱があるからいけないね! 坊やが痛いのはこの柱のせいよ!」
と、人間、思いがけない不都合があった時、どうも他者のせいにしていっしょに攻撃するということがありがちです。


僕も、主治医が代わりに親を叱ってくれたとき、いっしょになって「そうだ!親が悪いんだ!」と思いそうになったものですが、
それはちょっとやめとこうかな、と思うようにしました。

先ほどの母親のように「この柱も痛かったのよ」と、自分も痛かったとしても相手も実は痛かった経験などがあるのではと思いやれる余裕を持てる人間でありたいと思ったからです。

私たちは自分ひとりが主人公としてこの世に生きているわけではないことを知ると、相手の事情を考えるようにしようという気持ちになれると思います。


例えば、僕の父親の場合なら、教育学部を卒業して教員となったわけですが、配属先が「教育困難校」と言われる、要はガラの悪い生徒が集まるような学校の年数が多かったのです。
ですから、嫌でもその「教育困難校」で働くことに適応しなければなりません。(デスゲームミッション(?)もありますからね…)

なんとなくではありますが、昔は父親はなんだか無理して厳しい人間を演じているかのように、見ていて感じました。

今となってはそれがしみついてしまっているように見えますが。

また、その教育困難校に長年、配属されたことは正直いやだったのか、そうでもなかったのか、大変なストレスだったのか
そこまでの本音は父親からは聞けていません。

(ちなみに、このような自分の親のルーツを知るように勧めてくれたのは主治医でした)


ということで、理不尽に感じることがあって恨みの心がいったん出てくることは仕方ないとしても、相手の事情を知ろうとする努力は忘れてはいけないなという話でした。


相手の事情を知ったり調べたり、そこから推測したりするだけでも心はラクになると思いませんか?

もしよろしければサポートお願いします! いただいたものは活動のための資金にさせていただきます!