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精神病院物語-ほしをみるひと 第二話

 殺そう。
 そうだ殺そう。
 脳溢血にして殺しちゃおう。
 こいつの目見てよ。人間の目じゃないよ。
 この調子で殺そう。
 死ぬまで追い詰めよう。
 ようやく眠りについた四時間後。起きた途端幻聴が僕を殺しにかかってきた。目玉が圧迫され、破裂するのではないかと思うくらいだった。
 それから長い事布団の上でガタガタ震えていたが、もう自力で体調を取り戻すのは無理だった。入院するしかない、とわかっていた。
 だが……入院するということは再び自由を失うということだ。それを度外視せねばならない程、僕は追いつめられていた。命の危険を感じていた。
「お願いだ。入院、僕を入院させてくれ」
 泣きつくように頼み込むと、母は少し狼狽した様子を見せていたが、僕が限界なのはわかってもらえたようで、すぐに近くの精神科に車で連れていってくれた。僕は着こんでいたが、震えが止まらなかった。
 車に乗っている最中も「車から飛び降りろ、そうすりゃ楽になれるよ」「そっちの方がまだかっこいいよ」と声がしてくる。
 そんなはずがない。そんなはずがないじゃないか。こんないらない情報を無理矢理押し付けられる不幸を呪った。煩わしいとか悔しいとかいう次元を既に超えてしまっている。
 病院に着いた。これで入院できる。しかし入院した先に楽はあるのか。その先はもっと苦しくて不自由なのではないか。進む先に、光はあるのか。
 僕は急患扱いとなり、優先的に診察を受けることになった。女性の主治医の前に座ると、僕は一言「もう駄目です」といってガタガタ震えながらその場で頭を抱えた。
「これは大変ね、滝内さん」と先生が気の毒そうに目を細めるが「うちの病床の空きがないから……ちょっと別の病院に行ってもらうことになるね」と宣告された。
 今すぐ入院できないと知り、僕は絶望的な気分になった。先生は「凄く優しい先生だから」といって二十分程かかる場所の病院を紹介してくれた。
 頭を抱えながら母に付いて歩き、車に乗り込むと。それから二十分間。ずっと幻聴に耐え続けた。ノイズのような音が、徐々に耳の中で鮮明になっていき。男と女の殺意の言葉へ変換されていく。
「早く死……よ」
「お前……がいな……ても誰も困らないし」
「終……だよもう」
「つまんね。もっと……てたら許してやったのに」
 はっきり聞こえない言葉も、自分への悪意に満ちたものだというのはわかる。僕は涙を流していた。悲しいのとも、怖いのとも違う。とことんまで追い詰められたという理由で涙が出てきたのだ。
 街を抜け、線路を抜け、辿りついた病院で僕は先生の診察を受けた。老年の穏やかな目をした医師が迎えてくれた。
 僕はまともに自分の病状を説明できなかった。ただその場でうなだれ、震えているしかなかった。もしかしたら今回も注射を打たれ、寝ている間に隔離室に入れられるのではないかと思っていたが、先生は僕の症状をみた上で、入院同意書を提示してきた。
 入院期間は三か月と書かれていた。前回は一か月の入院だったので三倍である。この先どれだけ辛い思いをするかわからなかったが、呑むしかなかった。入院の手続きが済むと、僕は看護師に病棟へ連れていかれた。エレベーターで上った先に、大きな錠のある病棟が見えた。閉鎖病棟であった。
 病棟に入ると、狐目の若い女性が懐かしい邦楽を歌っている。小学生のころ、流行っていた曲だった。
 夢なんてものは見るものではない、語るものでもない、叶えるものなのだから、というフレーズが聞こえてきた。幻聴とはまた違った、聞いていて辛い言葉の数々だった。
 それから病棟の自分の部屋に案内された。おじさん二人との相部屋である。挨拶をする余裕もなかった。
 ベッドに座ってみたが、今でもまさに「あいつまた入院しちゃったよ」「もう人間には戻れないね」「『一旦』やめてやろうか」と声が聞こえていた。僕はガタガタ震えながら、寝ることもできず、ナースステーションまで行って震える声で助けを求めた。
 橙色の薬を一錠もらった。これを飲むと不安が消えるといわれたが、飲んでもなんの効果もなかった。
 奥の廊下では、四つん這いになって歩いている女性がいた。ホールではパジャマを着た年配の人が力なく座り、一人どこに行くでもなくふらついている人がいた。奥の煙草部屋は喫煙者で賑わっている。自分が再び閉鎖病棟という場所に入ってしまったことを実感した。
 その日の夕食はまともに食べられず、入れた先からボトボトと服にこぼした。それから医師がやってきて「パーキンソン病の傾向がある」といわれ、点滴を打たれるようになった。
 管で繋がれた自分は本格的に晩年を迎えているように思えた。トイレに行くときは点滴と一緒に看護師が付き添い、なんとか自分で処理できたのが救いだった。(つづく)

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