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精神病院物語-ほしをみるひと 第七話

今、時間を無駄に過ごしてしまうことを嘆いているが、結局退院しても同じことなのかもしれない。

*第七話*

 白線に沿って、走っていた。小学校の校庭。僕は運動会で、またかけっこの競技をしていた。
 空はいくらか曇り、雲間から弱々しい光が射している。
 周りには沢山の人がいたが、彼らは僕の応援などしていない。顔もわからない、背景のような存在にすぎなかった。
 おそらく最初は他の選手が横並びだった。しかし走り始めた途端、彼らは僕より遙か先へと行ってしまう。
 胸が締め付けられるように苦しい。僕の体は強くない。それに、一体どれだけ長いこと走っているんだ?
 もう僕の見える場所で走っている人は誰もいなかった。それどころか、もう彼らは別の競技に移っているようだ。こんなところで苦しんでいるのは僕だけか。
 他の走者のいない遅れた場所で、僕は必死で走り続ける。ゴールは、まだ見えない。

 久々に夢をみた。叫び出したくなるような恐ろしい夢だった。
 夢の中では僕は一人で遅れた場所を惨めな顔をしながら走り続けていた。自分一人がみんなから置いていかれる。それは事実であった。
 もう僕は大学には戻れないだろう。かといって仕事もできない。この先、退院できたとしても、なにをして生きていけばいいのか見当もつかない。
 目覚めたとき、ホールの方でラジオ体操が終わっているのがわかった。これから朝食が配られる。
 僕は病室を出て、トイレに向かうと、洗面台の前に立ち、顔を洗い始めた。
 外にいたときは毎日洗っていたと思う。入院してから習慣が途絶えたのは環境が変わったのと、特に必要に迫られなかったからだ。顔を洗った程度でなにが劇的に変わるとは思えなかった。それにここでも週に三回は風呂に入る時間がある。
 それから朝食の時間になった。今日はパンにイチゴジャムがついてきている。レアチーズケーキなるパックに入ったお菓子もついてきているが、これは名前から想像もできないくらい不味かった。
 朝食を食べながら、僕はちらりと三つ先の机に目をやった。小動物のごとき円らな目をした可愛い女の子が一人でご飯を食べている。
 あまり食は進まないようで、小さい量を少しずつ食べているようだった。具合がよくないのか、いくらか顔色が悪い。秀麗な顔に差した陰が、たまらなく儚げで、人知れず僕は心配だった。
 勝手な話だというのはわかっている。きっと僕の思いなどパンの耳ほどの価値もないだろう。それどころか自分の浅ましさに怒りすら覚えてくる。自分はこの面で、あの娘と上手くいったらいい、なんて思っているのだ。それは紛れもない本心であり、考えれば考えるほど気持ちが暗くなっていく。
「あら滝内さん。あんた。顔洗ったんだね。ちょっとはきれいになってんじゃん」
「どわあああっ?」
 女の子に見とれていたら、いつの間にか花村が前の席に座っていた。
「なに驚いてんのあんた」
「いや……。花村さん。顔洗ったのそんなによくわかりますか? 目にみえてわかるほど違う物なんですか?」
「うん全然違うよ。超不細工なのは変わらねーけど」
 顔を洗ったら美男子になるのなら誰でも洗うだろうと思った。いちいち不細工といわれるのも嫌だが、だんだん現実を受け入れている自分もいた。
「不細工なのも大変だね。あたしは顔がよかったからイケメンの旦那と結婚できたけど」
「はあ」
「気のない返事して、信じてねーだろ。娘だって三人いるけど、みんな美人揃いだよ」
「ううむ……それはよかったですね」
「良くねえよ! あたし旦那にも娘にももう会えないんだから」
 その言葉で夫婦の不仲を連想した。
「離婚でもされたんですか?」
「離婚なんてしてねえよ! 失礼な。旦那も娘も大分に住んでるの。こんな山梨にいたらもう会えねえから」
 離婚はしていないが別居状態ということだろうか。
「そんなに会いたいなら退院してから会いに行けば良いと思いますが」
 僕が思ったままのことを言うと、花村は辛そうな目をして顔を横に振る。
「無理無理。あたしこんな頭おかしくなっちゃったから。もう一緒に住めないし、いない方が良いんだよ」
 それを聞いて精神疾患が家族仲すら壊してしまうことを知った。うちだってなにも悶着がなかったわけではない。
「家族関係のことはよくわかりませんが、二度と会えないってのはおかしいですよ。会えますよ、絶対」
「ああ? 人事だと思っていい加減なこというね。あんた」
「だって別に花村さんが悪いことしたわけじゃないじゃないですか」
「あー……そうだね。あんた良いこというじゃん。なんか可愛く見えてきたよ。不細工だけど」
 不細工不細工いわれるのはしんどいものがあるが、どうもこの人からの印象が少し良くなったらしい。
 いちごジャムを引き伸ばしたパンを食べ終えると、また病室に戻った。これから先、また一日の時間を潰す方法を考え、実際に潰さねばならない。
 病室に戻ると、おじさん二人が自分たちの荷物の整理をしていた。手前のベッドのおじさんは話が通じないので、奥のおじさんに声をかけてみた。
「これから退院だ。こっちのクソジジイも偶然同じ日みたいで」
 クソジジイとは口が悪いが、共感できないこともなかった。
「退院ですか……よかったですね」
 ここから出られるのが羨ましかった。おじさんは「ありがとうよ」といってまた荷物整理に戻っていた。着替えや洗面用具、お菓子、入院中必要な物は結構多い。
 僕は一回退院を経験している。両親に迎えられ、病院の外でアイスココアを飲んだときの圧倒的な解放感といったらなかった。病院の中庭に広がる瑞々しい緑を眺めていると、自分の心が再生していくような思いに包まれた。体に染み渡る清浄な空気。苦しい生活を終えたことによる溢れんばかりの悦び。病棟と外の世界ではなにもかもが違った。
 だけど、退院してからのリハビリで、結局僕は生活を地獄にしてしまった。
 去年の秋。退院した当時はいろいろなことを頑張ろうと思っていた。生活習慣を整え、復学に向けて勉強をするつもりだった。
 だがなにもかもが思うようにいかなかった。教科書を読んでも、以前のように頭に入ってこず、少しやっただけで嫌になって、布団で寝ているしかなかった。家事の方も同様に、少しだけやって心が折れ、以降ほとんどやらなくなった。
 それから日々を無駄に過ごしているうちに、また声が聞こえたのだ。「こいつ頑張らないね」「最低のクズだろ」と。
 今、時間を無駄に過ごしてしまうことを嘆いているが、結局退院しても同じことなのかもしれない。それでも閉じこめられている今よりはマシに違いないのだが。これが繰り返されるとしたら?
 恐ろしい問いかけだった。それを考えるたびに、僕は自分の人生に希望が持てなくなる。
 昼過ぎにはおじさん二人が退院していった。病床は二つ空きとなり、しばらく僕は部屋に一人で寝ることになりそうだった。(つづく)

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