クリティカル・デザイン振り返り 1/3(2013年版)

以下のテキストは2013年のものです。ウェブサイトのリデザインを機にブログをnoteに移行するにあたって転載しました。

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以下転載記事

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早いもので卒業して半年くらい経ちましたが、とりあえずロンドンにて生き延びています。都現美「うさぎスマッシュ展」も好評っぽくて何よりですが、展示が終わらないうちにちょっと考えためていたことを何回かに分けて書こうと思います。連載計画はこちら:

1. 「クリティカル・デザイン」とは、自分なりのまとめ
2. RCA デザイン・インタラクションズ学科で何を学んだか
3. 今後どういった活動をしていくか、していくべきか

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経緯少しだけ

僕は2008年から2010年まで、東大の廣瀬・谷川研究室に修士の学生として在籍していた。そこでは「インタラクティブな建築についての研究」といって、自分に反応して物理的に動く建築の中では人間にどんなことが起こるか、みたいなことに注目して研究したり制作したりしていた。自分ではコンセプトや批評をきちんと考えたつもりだし、また作品を工学系技術の文脈の中で語ることには成功して、今でもわりと満足している。ただ、展示や何やらで発表するときには決まって「メディアアート」という超超特殊なエンタテインメントとして消費されて終わりになってしまうのがつまんないなーと思っていた。「おおお。これは、どうやって動いているんですか?」とか。ただこういう質問を受けるのは自分の腕不足にほかならないというのは自覚していたから、テクノロジーを批評的に語って伝える技術を学ぶために、クリティカル・デザインを標榜しているRCAデザイン・インタラクションズ学科へいこうと思うように。

クリティカル・デザインとは?

未来について考えて議論することを人々に促すためのデザイン。特に、テクノロジーや地政学など、現代社会において複雑化している事象によってつくられるかもしれない未来や、つくられたかもしれないパラレルワールドを描くことが多い。(少なくとも僕は。)クリティカル・デザインの開祖、RCA デザイン・インタラクションズ学科長Anthony Dunne氏が著書「Hertzian Tales」に書いたところによれば、

クリティカル・デザインは、プロダクトが生活の中で果たす役割についての思い込みや予測や常識に対して、思索的なデザインを用いて異を唱える。そのための手法というよりも考え方やスタンスである。

「プロダクト」として始まったのは、Tonyがプロダクトデザイナーで、建築と比較してプロダクトに批判的なスタンスがない、というフラストレーションが理由らしい。ただ今では、当然プロダクト以外にもサービスだったりシステムだったり果ては「国」なんてのも対象になってる。

普通のデザインと何が違うの?

再びTonyを引用すると:

現状を強化する肯定的なデザインの対局にある

ということで以下がその対局さを示したリスト。

中には個人的にはちょっと違う気がすると思うものがあるけど、大事なのは対比として語られるということ。つまり「これからはクリティカルだ!」とか言うわけではなく、余白を埋めるためのデザインだということ。批判をする相手が必要なので当然といえば当然だが、メインストリームには一生なれないのかもしれない。

なんでクリティカル・デザイン?

科学者や識者、普通の人々がテクノロジーや地政学などがつくる未来について立ち止まって考えたり議論したりするスペースをつくることが必要だと思うから。物理的な場所、ワークショップ、インターネット上の場所、展示空間、見た人の頭の中など、形態は問わない。

複雑化している社会の中で、みんなが共有できる側面を切り取って考えたり議論したりするのはどんどん困難になっている。特にテクノロジーや地政学は、その裏にいるフィクサー達によって流れが決定されていることもあるので、気づかない/考えないうちに未来が目の前にきてしまってる。「This is your future, take it.」また逆に、DIYカルチャーの中から凄まじい速度でテクノロジーが発展したり政治イベントが勃発したりもしている。そんな爆速で進む複雑怪奇な社会の中で、「ちょいみんな考えよう」っていう事柄を、ただの言葉や政策ではなくデザイン言語を通して伝えるのがクリティカル・デザインがやっていることなんだろうと思う。

もちろんきっちりした定義やワーキング・グループがあるわけじゃなく、ゆるく定義されたエリアの話。

アー、ト?

何をアートと言うかはさておき、デザインと言っている以上、個人的には「アイデアを他人に伝えることができたか」ということで評価されるべきと思ってる。クリティカル・デザインの場合、「テクノロジーや地政学などに潜む側面を、人々に伝えて批判のための空間をつくりだすことができたか」ということが評価になる。それで評価できる/されたいプロジェクトならデザインだし、その評価を放棄してるプロジェクトはアートと言ってしまっていいと思う。

「他人=マーケット」「評価≒売上」な場合と違って評価を定量化できないのが難しいところだが、コンセプト・デザイン(コンセプチュアル・デザインではなく)あたりのエリアでも同じだろうから、評価に定量性があるかどうかは、それがデザインであるかどうかとはあまり関係ないはず。とはいえ、クリティカル・デザインがある程度浸透しつつある今、お金払って展示を見にきてくださるような奇特インテリな方々の頭の中に仮想世界を作っただけで成功したと言っていてもしょうがないというのは自覚していて、頭の外にスペースを作るというところまでいけるといいなと。(この辺は第3回でも書きたい。)

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とりあえずはいつもよく聞かれることにまじめに抽象的に答えつつまとめてみましたが、次回はこういうことを実践している/実践したい人たちに囲まれた2年間で何を学んだか、ということを具体的なプロジェクトも交えて書いていきます。

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