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見返りがない前提で周りのために動くと自分の満足度が結果的に増える

私は目の前の人のために動くのが好きだ。
「何をしたら相手の助けになるか」「これをプレゼントしたら喜ぶかな」とか考えるのが楽しい。

一方で以前の私は「相手からの見返り」も同時に求めていた。
これだけ時間とお金を使ったんだから何か返してくれるでしょ、と。

だけど、見返りを期待せずに動くほうが結果的に自分の嬉しさが増えることに気づいた。
今日はそんな話。


見返りがないと相手を嫌いになった過去の私

5年以上前、とある社会人サークルで新しいイベントを立ち上げるプロジェクトに私は携わっていた。
みんな社会人なので平日の夜遅くか土日のみの活動だったけど、夜中までメールでやり取りするなど他では味わえない濃密な経験だった。

ある日、とあるメンバーと初めてプロジェクト活動以外の話をした。
その人は深夜まで作業することもザラで精力的に動いているように見えた。

ただ話してみると、最近仕事が忙しくてサークルの活動がしんどいと感じているらしい。
だけどみんなと一緒にいるのが好きだから両方頑張りたいとのこと。

話を聞いているうちに段々「私にできることはなんだろう」と考えるようになった。
そして、私はそのメンバーの作業を手伝うようになった。

当時、私自身も仕事が忙しくて時間がなかったけど、それでも限られた時間を割いて手伝った。
また、そのメンバーが体調不良になったときは片道1時間くらい掛けて差し入れを持っていった。

けれど、そのメンバーは結局プロジェクトを離脱した。
しかも私に連絡することなく。

真っ先に感じたのは「あれだけ時間とお金を使ったのに、私には何も連絡無しか」ということ。
そしてその感情を抱いた自分が嫌になった。

自分の行動に対して必ず見返りがあると期待すると辛い

私は自分よりも他人のことを優先しがちだ。
それは「相手に喜ばれたい」という気持ちと「断ると嫌われる」という思い込みから来ている。

そして自分のリソースを周りに差し出しすぎてヘトヘトになっていた。
以前に取り上げた『GIVE & TAKE』でいうところの『自己犠牲的なギバー』だった。

そして自己犠牲の代わりに私が無意識で求めていたのが「見返り」だった。
自分で自分のことを認められなかったので、いつも人からの評価や称賛を求めていた。
たぶん「喜ばれたい」よりも「褒めてほしい」「嫌いにならないで」という気持ちが強かったと思う。

だけど、見返りが必ず来ると思いながら行動するのはとても辛い。
なぜなら見返りが来なかったら私自身が相手を嫌いになってしまうから。
「私はこれだけ手助けしたのに」「恩知らず」と。

多くの人に少しずつ手助けして、忘れた頃にお礼を貰えると嬉しさが増える

要するに以前の私は『欲しがりさん』だった

私が知らず知らずのうちに相手に見返りを求めていた理由は「相手に尽くしすぎる」からだった。
自分がヘトヘトになりながらも相手のために行動している、だからきっと返ってくるはずだ、と。

ただ、歳を重ねるとともに友人が少しずつ増え、会社でも関わる人が増えてきた。
そして目の前の一人ひとりに割ける時間に限界が出てきた。
その結果、「多くの人たちに少しずつの手助けを」という考え方に段々変わってきた。

例えば部下に差し入れをする、業務が少しラクになるツールをサッと作って渡す、共用施設の掃除をするなど。
時間にしてはちょっとしたことだけど、相手は喜んでくれる。

何より、多くの人と関わるようになるといい意味で「自分がしたこと」を忘れてしまう。
そしていつしか「見返りがなくてもいいや」と思えるようになった。

ただ、忘れたころに相手からお礼が来るととても嬉しい。
見返りを期待しない状態でお礼をしてもらえると、結果的に喜びが増えるのだ。

自分の気持ちに素直になって動く

こうやって聖人っぽいことを言いつつ、今でも私は見返りを求めがちである。
例えば「今回のnoteは2時間も掛けて書いたから、みんな読んでくれるはず!」とか。
投稿直後は意味もなくnoteを何度も開いたり更新したりとか。
まだまだ承認欲求丸出しだ。

だけど、少なくとも昔ほどは見返りを求めなくなった。
というか見返りを求めなくなったから、私はnoteを続けられている。
(まだ1ヶ月だけど)

今更ながら大事だと思うのは自分の素直な気持ちに従って動くことだ。
「困っているから助けたい」「これプレゼントしたら喜ぶかな」「自分の気持を表現したい」
そういった自分の気持ちを大切にして動くことが大事だと思う。
だってそう思う瞬間は相手の見返りなんて考えていないのだから。

私は自分も相手も両方嬉しくなることを今後も続けていきたい。

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