pplogポエムサンプル-2
この家ではいつも波音が聞こえる
窓からは、砂浜と海と空が三層に重なって見える。
古い家だが手入れがよく、木の床は磨かれてなめらかだ。
窓の景色と床と、その二つが気に入って、彼女とここに住もうと決めた。ふた月まえのことだ。
床に新聞紙を広げて、その上にイーゼルを広げた彼女が、窓の方へ筆を伸ばす。
「海と空の境い目は、ここ」
彼女はイーゼルの前の小さな椅子に座っている。立っているわたしからは、境目は少しずれて見える。
ずれていることを伝えると、彼女は、でも、とほがらかに笑った。油絵具を載せた筆先を、昼間の海の青を透かす窓ガラスに触れさせ、すっと横に引いた。
鮮やかなレモンイエローが、ひとすじ残る。
「わたしは、ここ」
わたしは彼女に手を伸ばす。彼女はもう一度おなじように笑って、筆を油壷に入れ、立ち上がってわたしを迎え入れる。
うっすらと汗に湿った首筋に、油絵のオイルの匂いがする。
夕方、脱ぎ捨てた服を拾いあつめて身につけ、わたしたちは夕暮れの砂浜へと散歩に出る。
夜、歩き疲れたわたしはひとり、明かりの消えた家に戻る。ここに越してから10年以上も、波音はこの家を満たしつづけている。
国道沿いのダイナーは、観光客にも、一人暮らしの人間の毎日の食事にも無関心に優しい。
照明をつけようとして、手を止める。磨きつづけている床は、外からの月光を照り返して滑らかだ。長い時間を経て、踏むと少しきしむようになった。
暗いまま、この辺り、と、新聞紙からはみ出て床に散った油絵の具を、ナイフで削り取った跡を探す。窓へと首を向け、夜の海へ目を凝らす。
夜の海と空の境い目は、見分けがたいようでいて、晴れた日はよく分かる。星が散らばって光っているのが空。その下の、ふっつりと光を飲み込んだ暗闇が海。
窓のひとすじの絵の具跡は、暗くて色は見えない。今では、色あせて、剥落しかかっている線だ。
海と空の境い目より、その線は少し沈んで見える。わたしが立っているからだ、と昔思ったことをもう一度思う。
ゆっくりと膝を曲げて、境い目と、絵の具の跡を合わせてみる。
ぴったりと合わさった瞬間、初めてその線が引かれたときの、鮮やかなレモンイエローをふと思い出した。君の、でも、と笑う時の眩しさ。
『わたしは、ここ』
そうだ。君はここにいた。
19:24 Wed 22 Jan 2014
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