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「土佐国風土記」    川崎一水


 「土佐国風土記」    川崎一水

はじめに

 土佐国は、もとは土左国とも書かれ、古くから「とさ」と呼ばれていた。「とさ」とはどういう意味なのか?   ―  それは「遠宇佐」であった。

 土佐に居る人も今ではわからなくなっている。中世の言葉が多く残る今の高知県のことではあるが、それでもわからないのは中世の言葉ではないということである。高知に生まれた坂本龍馬のおかげで「いかんぜよ」というのが日本中ではやり言葉のようになった時期もあったが、これは江戸期幕末の坂本龍馬の話を書いた司馬遼太郎の『竜馬が行く』おかげではあるが、高知には中世の言葉が多い。龍馬の言葉で「いかんぜよ」の「如何」もそうであるし、「お前は」の意味の「おんしゃ」も「お主は」の略語である。面白い言葉で「へんしも」という言葉があるが、「至急」という意味である。もとは「片時も待てない」という意味あったといわれ、「片時」と書かれたのが「へんし」になったといわれる。また「寸志」や「片志」も「へんし」ではあるが、「ちょっとした志」の意味であるから「片時」が正しいのだろう。

 土佐藩山之内家の領地となるまえの戦国期には四国をほぼ統一した長宗我部は、今の南国市岡豊の宗我部・曽我部の地を源頼朝から与えられたことからそう名乗るようになったといわれる。もとは信州の秦忌寸の裔といわれる初代秦広国を祖とし、第二十代秦能俊が土佐の宗我部(曽我部)の地に来て以降、他にも曽我部が居たので、長宗我部と名乗った。秦氏はよく知られているように応神天皇の時代に多くの民を率いて渡来した弓月君を祖とする渡来系一族であり、一説には秦の始皇帝の末裔ともいわれる。
遡っては今大河ドラマでも描かれている平安時代一条天皇の下向地としても知られている。当時は流されるか逃げるのは四国であった。四国はもとは土佐・阿波・讃岐・伊予の四か国であるから、古事記にあるようにもとはタケヨリワケ(建依別)、オオゲツヒメ(大宜都比売)、飯依比古(イイヨリヒコ)、エヒメ(愛比売)といった。四国は面が四つあるからそう呼ばれたと書かれてはいるが、もとは“伊予の二名島”とも“死国”とも呼ばれ、“死からの再生”を表す意味であったともいわれる。

 伊予の二名島は「伊予」のほかにもう一つの名があった。「臺与」であった。「臺与」の読みは「とよ」であった。「豊」である。四国は「伊予の島」であったが、「豊の国の島」でもあった。

 高知に生まれ、なぜに高知というのか?名瀬に土佐と呼ばれるのか?その疑問を調べるうちにその答えにたどり着いたのである。


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