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私は何者なのか〜5人きょうだいの4番目からの考察

「私は何者なのか」〜個人的に、自分を掘る作業を少しずつ。

1970年代に東京で、5人きょうだいの4番目に生まれました。正確には、生まれた時点では4人きょうだいの末っ子だった訳なので、8年後に妹が生まれ打ち止め(?)で、5人きょうだいが確定しました。

その構成は
女(5コ上)、男(4コ上)、女(2コ上)、女(私)、女(8コ下)
2姉、1兄、1妹となると、充てる漢字がややこしいので“きょうだい”としました。

このきょうだい構成が、私の人格形成に関わっていたのかなぁ、と少し考えてみました。長子だから○○、末っ子だから○○、真ん中っ子だから〇〇、どれにも当てはまらず、なかなか共有しにくい設定……我ながら捉えにくい!  「多兄弟の下の方あるある」をあげてみます。

・赤ちゃんから子供時代の、単独の写真はほぼない。
・服はお下がりがデフォルト、たまに男の子用カラーも交じる。
・お菓子を等分に分けるため、ポッキー(当時)の入本数を知っていた。
・空気を読んで、世間体的には、いい子だ。
・遊びに付いていくのに必死で、心身共そこそこ鍛えられる。
・ゲームで負けることが常なので、たいして負けず嫌いではない。

テレビで“十何人きょうだいの〜”、とかやってるのを見ると、こちとら平和なもので、大仰に言うほどのものではありません。とはいえ私の年代、都内では2,3人きょうだいが主流の中、なかなか共有できる人がいなかったので。近い境遇の方がいたら仲良くなれそうです。

妹が生まれる8歳までは、末っ子の立場をキープしていたので、母からは「(それまでは)みんなに可愛がられてたのよ〜」と後から聞かされました。が、大抵は上3人にまとめられ、就学前からスキー合宿に放り込まれたり、海に行けば子どもたちだけで沖へ連れ出されたり、けっこう揉まれて育ったことを憶えています。

地元小学校に4人が同時在籍してたので(6年、5年、3年、1年)、校内で会う上級生たちにいつも「◯◯の妹だ〜」と、あれはからかわれていたのか、珍しがられたのか、文字通り有名ではありました。目立つのは嫌でしたが、多くの目が光っていたので、まあまあのしっかり者、真っ当な小学生でした。妹は8歳も離れていたので、末っ子の座を奪われても嫉妬をぶつけることもなく、ふつうに可愛がっていた筈(?)です。

その間、長女が私立中学へ、長男が国立中学へ、次女が私立の美術系女子中学へ、と進学していきました。みんな受験して別の道を行くなんて、相当恵まれてるし、各々の特性を考えて進学させた母、凄い! と今なら思います。

まあでも、立て続けにそこまでやったら、母親も疲れてたんじゃないかな、と当時の私が考えたのか、それとも金策面を心配したのか、「私はいいよ、公立で」と地元の公立中学校へ進みました。空気読む子! 塾とか面倒だし、ただ楽をしたかった説もありますけどね。4番目は冷静な目をもったポジションなのかもしれません。ちなみに8コ下の妹は要領よく、御三家と言われる私立女子中へ進みました。賢い子! 

だからきょうだいで地元での共通体験は、小学校までなのです。実際それぞれが知らない環境で過ごす時間が多くなると、自立していく過程で、精神的にも自然と離れていくのを感じることになります。その人数が多い分だけ、それぞれの成長に寄り添うことが難しくなるのかもしれません。そうして今になって、その後のブランクを埋めることが難しくなるのです。これはまた別の機会に。

そして、空気読む子だった反動でしょうか、大人になって、空気読まなくなりました。空気読んだフリはある程度できるつもりでした。でも、自分にその役割が求められてないのなら、必要ないのなら、空気を読まないフリをすることもあります。私が会社組織で同調圧力に嫌気がさしてしまったのは、空気を読むことへの反動もあったのかも……? というのは、ちょっと無理やりかしら。

様々な側面から考察を続けてみます。



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