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ノスタルジック・アディカウント #13

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 姉貴は事情が事情だからと急遽バイトを休んだ。

 時間をおいても飯を食っても、姉貴の『俺』に対する怒りはまったく冷めないらしかった。ことあるごとに音乃ちゃんごめんねうちのバカが、と謝った。結城君のせいじゃないです、と『音乃』がいくら繰り返しても、姉貴はいっさい聞く耳を持たない。

 俺はなんとも複雑な思いでそれを聞いていた。

 俺自身のことではないけど他人事でもない。俺が責められているわけではないのに、妙な罪悪感がわいてくる。

 ――複雑、だった。本当に。

 学校が終わって『俺』が帰ってくるのは、どんなに早くても五時を過ぎる。パートに出ている母さんは、だいたい六時頃に帰宅する。

 俺たちはぎりぎりまで、自宅で待っていることにした。

 どうあれ姉貴がいてくれて助かった。『俺』や母さんと常に連絡が取れるのは姉貴しかいない。

 ののと姉貴が共謀して怒涛のメッセージを送ったおかげで『俺』はまっすぐ帰ってきた。五時半前。その時点で母さんに送ったメッセージ――帰る前に電話をくれという旨――の既読はついていないらしかったから、多少、時間に猶予はある。あるのだが――。

「憶えてねーよ、そんな昔のこと」

 帰ってくるなり姉貴に糾弾された『俺』は、まったく悪びれる様子もなく、むしろ不貞腐れた態度で言い切った。

 なんだその態度はと姉貴が頭をこづく。
 『俺』は鬱陶しそうにその手を払う。

 姉貴が激昂し、『俺』も売り言葉に買い言葉よろしく怒(いか)りだし、取っ組み合いになりかねないと察したらしいののが、「まあまあ」と二人の間にはいって宥めた。

 俺はリビングのソファに座って、なりゆきをただ見守っていた。口は挟めなかった。自分が中立の立場を守っていても、結局〈俺〉のことなのだ、傍からはそう見えないだろう。下手に口をひらけば余計な軋轢を生みかねない。

 隣には、相変わらず、俺のコートを膝に掛けて体育座りをしている『音乃』がいる。

「ね、ケイくん。ほんとに憶えてない?」

 姉弟のあいだで器用に体を反転させたののが、『俺』の片手を取って迫る。

「憶えてるんなら正直に話して。憶えてないなら思いだして。ののたちが戻るのに、どうしても必要なの」
「必要、って――」

 顔を赤くして戸惑っている。
 俺は二人から視線をはずした。

 ののが必要としているのは、厳密にいうと〈記憶〉ではない。
 どうも俺たちが買いだしに行っている間に、ののと姉貴とで『俺』に「罪を認めて謝らせる」というたいそうな方法が持ちあがったらしいのである。
 だからののが引き出そうとしているのは――まあ記憶も必要ではあるけれど――『音乃』に対する謝罪の一言だ。

 ただ、それが解決に繋がるのか疑問ではある。

 『音乃』が前を向くためには、二人で話さなければならないことがあるんじゃないかとも、思うのだけれど。

「なに赤くなってんのよ気色の悪い。そんなのんきな反応してる場合? こっちの音乃ちゃんがああなったのも、このののちゃんたちがこうなってるのも、ほとんどあんたのせいでしょーが」

 目を戻すと、姉貴はののの肩に両手を添えて『俺』を睨みつけている。
 容赦の欠片もない言葉に『俺』は「はあ?」と目を剥いた。むろん姉貴は怯まない。

「聞けばあんた、音乃ちゃんに酷いこと言ったらしいじゃないの。困ってる女の子を見捨てていくのも最低だけど、周りに流されていじめる側にまわっちゃうのは超最悪」
「そうじゃねぇよ、あのときは――」
「憶えてんじゃないの」

 『俺』は、う、と詰まった。姉貴たちから顔を背け、ののの手を振りほどき、ダイニングチェアを乱暴に引いてどかりと腰を下ろした。俺たちに背を向ける格好になる。

 帰ってきてから一度も、『俺』はこちらに顔を向けてこない。『音乃』もそうだ。前方の虚空を見つめたままじっと息をひそめている。

 目も合わせず、言葉も交わさず、存在すら認識していないようにふるまってはいるが――だからこそというべきか、互いが互いをいやというほど意識しているように感じられた。

 同じ空間に在る互いの存在に、ぴりぴりとした緊張感を放っている。

 なんだその態度は、と姉貴がまた怒った。まあまあ、とののがなだめる。

「――話したのかよ」
「え?」
「深山は全部話したのかよ」

 唐突に発せられた名。『音乃』がびくりと体を強張らせた。

「ぜんぶ――」

 ののがこちらを振り返る。

「――だと、思うけど」

 『音乃』は親指を噛んでいる。俺の陰に隠れるように、体を縮めて。
 『俺』はそれきり黙ってしまう。

 妙な沈黙が落ちた。
 時が、停滞する。

 やがて『俺』が自らその沈黙を破った。

「肝心なこと――言ってねぇんじゃねぇの。〈そこ〉話してたらこうはならならいよな。なあ。深山」

 初めて直接、呼びかけた。
 相変わらず背中を向けたままではあるが、それでも、低い声は鋭く『音乃』を突き刺した。

 『音乃』の手が小さくふるえだした。
 たぶん、それに気づけたのは俺だけだ。

「どういうこと?」

 ののが不審げに問う。
 『俺』からの答えはない。
 『音乃』の呼吸が、わずかに乱れた。
 ののがじれったそうに問いを重ねる。

「ねえ。まだなにか隠してるの?」

 『音乃』はふるえている。

「あんなふうにみんなで話して、あれだけ時間あって、なのにまだ隠してることあるの? おかしくない? っていうか今のケイくんの言い方だと、原因はケイくんじゃなくて――」

 『音乃』自身にあるように――聞こえた。
 答えを求めて、ののが『俺』の背中を見やる。反応はない。ののはさらにじれったそうに、声で『音乃』に詰め寄った。

「もしそうだとしたら、それ黙ってるってどうなの? 卑怯じゃない? ケイくん悪者にして、自分は――」
「のの」

 さすがに止めた。

「ちょっと、待とう。酷だよ」

 『音乃』に対して、ののの言葉は辛辣すぎる。聞くというより責めている。ひび割れた硝子を殴っても壊れるだけだ――。

「……は?」

 ののは呆れたような、怒ったような、半笑いの表情になった。剣呑な瞳に威圧される。

「酷ってなに? 今度はあたしが悪者なの?」
「いや、そうじゃなくて」
「佳くんは知ってたの?」
「え?」
「佳くんは、知ってたの?」

 同じ問いをゆっくりと繰り返してから、ののは表情(かお)から笑みを消した。心底腹立たしそうに唇を噛んで、『音乃』を睨みつけ、俺を睨みつけてくる。

「――知ってたんじゃないの? だから酷だなんて言えるんだよ。『のの』から全部聞いたんでしょ。聞いて、全部知ってて、なのに隠して、こっちのケイくんを悪者にして『のの』をかばって――」
「ちょっと待てよ。おまえ、言ってることめちゃくちゃだぞ」

 本当に。支離滅裂も甚だしい。いったいどう思考回路をめぐったらそんな話が出てくるのか、まったく理解ができなかった。

 そもそも――。

「俺だってなにも知らない。なにも聞いてない。おまえと同じことしか――」
「なんで聞いてないの?」
「はあ?」

 今度はなんだ。

「さっき仲良く買いもの行ってたじゃん!」
「仲良く、って」

 なぜそこに繋がるのかもわからない。仲良くの意味もわからない。

「あれは――」
「ののたちが邪魔だったんでしょ。その子、ののやみぃちゃんとはぜんぜん喋ろうとしないもんね。佳くんにばっかひっついて。佳くんとばっか喋って。ののの知らないところで結託してるって、普通思うじゃん」

 思わないだろう、普通。そんなこと。

「なんだよそれ。なんでそうなるんだよ」
「だって超時間かかってたじゃん!」

 突然――ののが癇癪を起こした。

「スーパーまで十分もかかんないじゃん。なのに三十分経っても戻ってこなかったし、その間に、せっかく作ったごはん冷めちゃうし」

 せっかく作ったごはん、って言ったってチャーハンだし、たぶんほとんど姉貴の手だ。しかも俺たちが帰ってきたとき、二人はすでに半分以上食べ終えていた。待ってた、そのせいで冷めて不味くなった、というのならそりゃ俺も謝るし悪いとは思うけれど――。

 しかしののは反論を待ってくれない。

「あたしがなに言ってもちゃんと聞いてくれないし、あたしより『のの』のことばっか庇おうとするし、ぜんぜん味方してくれないしっ……」

 くやしそうに唇を噛む。

 もしかして――拗ねてるのか?

「帰りたいんだよ、あたし。帰りたいの! だってこっちの世界、居場所ないんだもん。みぃちゃんしか優しくしてくれないんだもん!」

 拗ねてるのか――。

 合点はいったが、やはり言い分は理解できなかった。納得はしたがとたんに頭が痛くなった。まるで駄々っ子の相手をしている気分だ。

「わかってるよ」

 こめかみを押さえて痛みを散らす。
 できるだけ冷静に話を進めようと努めた。
 感情に任せて俺とののが言い争ってもなにも解決しないのだ。時間の無駄でしかない。

「俺だって帰りたいと思ってる。だからこっちの『音乃』が本当になにか隠してるなら――重ねて言うけど、俺は聞いてもないし知らないから――聞かなきゃいけないって、それは思う。わかってるよ。けどさ、聞き方ってあるだろ。おまえずっと喧嘩腰じゃん。それじゃこっちの『音乃』だって――」
「また『のの』じゃん! 佳くん『のの』ばっかじゃん!」
「だからそれは」

 できるかぎり、

「おまえの言い方が悪いからだって言ってるだろ」

 冷静に、

「べつに俺はこの子をかばおうとか、おまえを無視しようとか、そんなくだらないこと考えてない。ただ話を前に進めたいだけだよ」

 ここで黙るべきだと思う。ののの出方を見るべきだと思う。

 そう思うのに、
 なのに、すこしだけ、
 俺のなかで、〈なにか〉がずれた。

「さっきも言ったけど、帰りたいのは俺も同じなんだよ。けどおまえに任せてなにか進展あったか? ずっと一緒にいて――なにかひとつでも聞き出せたのかよ」

 感情に箍というものがあるのなら、たぶんそれだ。
 外れたのではなくて、すこし、ずれた。

 そうしてひらいた隙間から。
 いままで押し殺してきた感情が。
 いままでの記憶――過去の記憶――とともに。
 中学に上がって以降の、ののの振る舞いとともに。
 這い寄る煙のごとく、緩やかに、けれど確実に。

 侵してくる。

 鼓膜に蓋をする。
 思考の回路を、遮断する。

 ちょっとケイ――と聞こえた姉貴の声は、俺の脳には響かなかった。

「この子、おまえになにも言わないんだろ。喋ろうともしないんだろ。それはおまえの態度のせいだよ。気分屋なのは構わないけど、相手は人形じゃないんだよ。感情もあるし、傷つく心だって持ってんだよ。好き勝手に振る舞って、人傷つけて――なのにそんな自分を棚に上げて悪いのは全部相手って? そんな都合の良い話が――」

 どんッ、と肩を押された。
 後ろから、思いっきり。

 『音乃』だった。

 痛みを堪えるような顔。
 真一文字に結んだ唇。
 こわばった頬が小さく痙攣している。

 前髪に覆われていない目は、俺が振り返ってから一瞬後に大きく見ひらかれた。自分で自分の行動に、驚いたみたいに。

 宙に浮いた手が固まっている。

 握り。
 うつむく。
 逃げるように。

 『音乃』はいきなり立ちあがった。膝に掛けていたコートが落ちた。どさりと重たい音を立てて――なのに俺には、やけにゆっくり、ひらひらと舞う紙きれのように――なぜか、見えた。

「音乃ちゃん!」

 姉貴の甲高い声が鼓膜を突き破って意識に刺さった。

 はっと我に返ったとき、『音乃』はすでに消えていた。

 次々と聞こえてきた――リビングのドアを乱暴に開け放つ音、廊下をどたどた走る音、玄関のドアの閉まる音――それらの音がそうであると認識したとき、そしてそれが『音乃』がいなくなった音なのだと理解したとき、俺は茫然とした。ののも呆然としていた。

 隙間から溢れだした幻影の、残滓だけが、まとわりつく。


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