悲鳴をあげよう。#鬱と生きる

先週鬱期に入ってしまっていたが、短期で抜け出せました。
僕の悲鳴に反応してくれた周囲のおかげです。ありがとう。


「痛い!」
「熱い!」
「苦しい!」
「辛い!」


悲鳴をあげるのは、生き物として当然のこと。犬でも猿でもギャア!と発する。

それはこどもの方が上手い。
人間はなぜか大人になるとみんなヘタになる。犬よりヘタになる。


僕は悲鳴をあげられなくて過去に二度ほど死にかけた。


一度目は中学から高校にかけての思春期。
二度目はサラリーマンで営業だった頃。


辛いことがあっても我慢の国に生まれてしまった。

一度目は悲鳴をあげたくても周りに誰も理解者がいなかった。理解者ゼロ時代。
それは自分からロビー活動をして理解者を増やしていく努力をしなかったのも悪いが、それをたやすくできる環境ではなかった。ナチスドイツでユダヤ人であることを隠して生きた人々の気持ちがよくわかる。
その頃、hideさんというアーティストが自死した。ドアノブにタオルをかけて首をつったらしい。そういう情報が、スマホもインターネットもない社会で、テレビから流されていた。


二度目はサラリーマンの頃。
社内に理解者はいないが、社外には沢山いた。そこは救いだったが、24時間働くような会社にいたため、僕は結局一日の大半、つまりは当時、人生の9割を孤独に生きていた。働き詰めだった。

悲鳴をあげたときにはもう遅かった。身も心もボロボロで、せっかく意気揚々と引っ越した高層マンションに帰ることさえ怖くなっていた。夜景が見やすく、飛び降りやすい、構造。



この国は我慢を美徳にするが心底ダサい。
ダサいの極み。


竹内結子さんも、三浦春馬さんも、上島竜平さんも、みんな死ぬ必要があっただろうか。

あんな美しい人達が。



包丁で刺されたわけでも、熱湯をかけ続けられわけでも、紐でぐるぐる巻きに拘束されたわけでもない。

だけどそれらを使わなくても人を追い込むことができることをこの国の自死データはよく表していると思う。
人からしたら「なあんだ、そんなこと」ということが、人を追い込み、死に至る。


辛い!苦しい!助けて!



僕はこれからも悲鳴をあげる。

悲鳴上手でありたい。

言葉に詰まったっていい。まずはギャア!と叫ぶこと。「いま誰か足を踏んだ!?」そんな感覚でいい。言葉にするのには少し時間が必要だから。

もう、あの頃には、戻りたくない。

クスっと笑えたら100円!(笑)そんなおみくじみたいな言霊を発信していけたらと思っています。サポートいつでもお待ちしております。