『零れた豆』

またあいつが家に来た。


「はいはい、こんにちは~。おげんきですか?そぅ?それはよかったね~」と俺を子供扱いしてきやがる。


あとは宜しくお願い致します、と母親があいつに会釈をし、丁寧に退室する。さっきまでいたはずの母親。母は肉親であるから何をされても最後の最後には許す。でも、こいつはどこまでも赤の他人であって、もちろんこいつがいないと今の俺の全てが回らないのは頭では解っているのに、それでも、俺の微かに残った脳細胞がこいつへの嫌悪感だけは敏感に察知する。


なぜあの時、あんな場所に行ってしまったのか。

『我が人生に悔いなし。』と言いたいところだが、生き地獄とはまさに此の事。『後悔先に勃たず。』


あいつはいそいそと準備を始める。俺の服を躊躇なく脱がし、体を拭く。反応する俺。思考、一部の感覚、そして一部の欲望だけが残り、他の全てはマヒ。言葉は出ない。唇からはうまく言葉が出ないのに、よだれだけがうまく垂れ流され続けている。こんなときにも唾液分泌という生命の神秘の一部分だけはうまく機能し続けている。人間の体は本当によくできている。そして憎い。


臭くない服を着させられた俺は、食事の準備をさせられる。唇も全てが動かなく神経もストップしてしまえばいいのに、俺はそこまでにはならなかった。こうして点滴もなく、自力で食物を噛み、嚥下し、栄養に変え、そして排泄する力はある。


あいつは俺の口にスプーンで食物を運ぶ。「はい、アーン」と言いながら、あいつも同時にアーンと口を開ける。必要もないのに。きっと癖なんだろう。そこにあいつの”いい奴”が出ていて、益々興奮する。


俺のうまく機能しない口からは声にならない音を出し、そして俺の機能している耳がそれを拾う。最初は幻滅したがもう慣れた。あいつは「はいはい、おいしいのね。そうね。よかったね。」と言うけど、俺は、やりたい、お願いだから一発やらせてくれ、と言っている。

言葉なんてそんなもんだ。仮に俺がまともな言葉を話せたとて、あいつがそれを「はいはい」と聞き流してしまえば同じこと。俺の気持ち悪さだけがあいつに伝わるだけだ。そんな想像まで働く俺が、いつもながら気持ち悪い。


「今日は豆ごはんですよ。春ですね。」とあいつが言う。俺は豆ごはんが大嫌いなんだ。それを母親にもずっと言わなかった。だから、誰にも伝わらずじまいのまま、言葉を失った今でも、春になると豆ごはんを食わされてしまう羽目になってしまった。誰かに、一言だけ言っておけばよかった。俺は豆ごはんが大嫌いだと。悔やんでも悔やみきれない。

嫌いだ。嫌いだ。やめてくれ。と言っているのに、それは豆ごはんを咀嚼しているものだと捉えられ、「あー、おいしいね。春の豆ごはんはおいしいね」と言われる。

他のおかずも食べさせられながらも、俺はあいつの口元に目がいっている。どうかお前のその口で、俺の落ち着かない気持ちをスッキリさせてくれ。ストレートにそう思っている。でもあいつは相変わらず「今日のハンバーグは柔らかくておいしそうね!はい、アーンして!そうそう!よくできました!」と言っている。お前より年上だぞ。俺の細胞は、まだ動いている。


最後にいつも通り俺の汚れた唇を荒々しく拭き、俺の食べこぼした物を、布団の上に落ちたそれらを綺麗にし、「おいしかったねー、よかったねー。」と言いながらあいつの体は玄関の方を向いている。そんなときも俺の急所はお前の口を求めている。


ありがとうございました。と奥から出てきた母親が丁寧にあいさつする。

次は木曜日だ。あいつが玄関から消える。


その後、豆が俺から零れた。




===

(後記)ここから肉付けしようと思っている作品です。登場人物は少なくても、そこには大きな世界が広がっている。

クスっと笑えたら100円!(笑)そんなおみくじみたいな言霊を発信していけたらと思っています。サポートいつでもお待ちしております。