誕生のしるし
「あなたは、その……
テレビでよく見る、おねぇの方なの?」
助手席で何も言えない僕。
涙をすする音だけが車内に響いている。
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日本の会社も、社会も、全て嫌になってしまった。
仕事を辞め、一度頭を冷やそうと訪れたベルリンが妙に気に入ってしまった。僕にとっては希望の首都に見えた。
二月の寒い日。
実家に帰り父母に「ドイツに住む」と告げた。
案の定猛反対を受けた。特にガンコ一徹な昭和の父親の声を、また荒げさせてしまった。
「28歳で仕事もせずに海外に移住なんて何を考えとる!?」「結婚は?」「お兄ちゃんに子供ができたんやから、次はお前の番やろう!」
母は黙ってお茶を煎れていた。
申し訳ないけど怒号の中で飲むお茶ほど、まずいものはない。
優しい祖母だってそうだ
会いに行くと「お兄ちゃんの次はあなたね。弟君はまだこれから…」と。
ウンとうなずき黙ってお茶をすする僕は、相当かわいそうに見えたんだろうか。
「家は?」——これから探す。
「仕事は?」——当面しない。
「知り合いは?」——これから作る。
「いい歳で結婚は?子どもは?」
「お前に家族を持つ気は、無いのか?」
―—無い。
無いと言えばあっさり解決するかと思ったが、逆効果だった。
「家族も持てないやつはごめんやけど人としてどうかしてると思う!そんな奴、俺の息子ちゃうわ!なんの支援もしないし、勝手にしてくれ!」
立ち上がり、財布と車のキーをジャラっと握りしめ、作業着をガサっと羽織り、玄関をバタンと閉めた。「お父さん…!」母がなだめる声はいつも、父の出す騒音にかき消される。
夕方のリビング。二人きりになってしまった。
僕は一度思い切り泣いた。手で顔を覆い、誰でもない何かに「なんなん」と叫んだ。
涙を振り切るように「もう帰る」と言い「ご飯は?」と聞かれたけど「いらない」と答えた。ひとりになりたくて駅まで歩いていくと言ったのに、歩いたら30分以上かかる。
「ダメよ、寒いから。送ってくからちょっと待って!」と母を急かしてしまった。
自分の人生を恨んだ。
なんでこんな家に生まれ、なんでこんな誰にも理解してもらえない決断しかできないんだろう。
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うつむいたら泣いていることになる。顔を上げ、暗くなった外を眺めるふりをする。
母が「本当に行くの?」と聞いた。
僕はウンとだけ答えた。
「いつ?」「半年以内には」「お金は?」「貯金がある」「本当にお友達とかいないの?」「いないけど、一人、紹介で向こうに住んでいる人が見つかりそう」
車にしたら7分程度の距離。母はゆっくりめに走っていたように思う。
「出発までにまた帰ってくるでしょう?」
「わからない」
「あんな父親のところに帰りたくない」
「そんなこと言わないで。準備とかあるでしょうし…」
―—あの人は、なんでいつもああなのか…本当に理解できない——僕はまたさっきの怒号を思い出た。僕と父はいつもそうだし、僕と母もいつもこうだったなと。
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ちょうどあのスーパーを越えたら中間地点という所に差し掛かった時、母が口を開いた。
「あなたさっき、『家族なんかいらない』と言ってたけど、あなたは、その……テレビでよく見るおねぇの方なの?」
ここでそれが来たかと思った。
でもここで正直に言えば、余計にややこしくなる。
家族は最後の砦。言うタイミングを間違えるととんでもないことになるし、今のこの、思考回路がほぼ止まったような状態で、その議論はしたくなかった。
それでも、母に嘘はつきたくなかった。もう会えなくなるかもしれないから。
出た答えは、何も言わないという答えだった。
何も言わず、また涙が頬をつたった。手でそれをぬぐう。
それが僕の、そのときできうる精一杯の、答えだった
母はハンドルを握りしめながら続けた。
「お父さんはね、いつも『結婚は』とか『子供は』とか言うけど、あの人は家族を持てて幸せだったのよ。あんな父親だけど、息子を三人も持ててとっても幸せなのよ。私もそう。だからね、自分と同じ幸せを味わってほしいっていう想いがきっと強いの。言葉尻があんないつも汚くて、私もいっつも腹立つけど――」
「……」
「それにね、順番でいったら私たちが先に死ぬじゃない?そしたらあなたたち三人で仲良くやっては欲しいけど、普段はやはりそれぞれの家庭があるじゃない?そういうときにね、ひとりで寂しくごはんを食べているとか、ひとりでこもって誰とも話さないとか、そういうことを想像したくないの。誰かとおいしいごはんを食べて、楽しく会話していてほしいの――」
「……」
「『家族なんていらない』とかそんな簡単に決めないで。あなたにはあなたのタイミングでいいから、どんな相手でもいいから、心許せる人を見つけてほしいの。そしてその人と、老後もたのしくごはんを食べていてほしいの。それはね、お父さんもお母さんも願っていること。お父さんは口が悪いからああいう表現しかできないけど、きっとその想いは同じだと思うから。」
「……」
駅に着いてしまう。
このタイミングでまた涙があふれてくる。
何も言わずに聞いていた。目も合わさずに。
それでも最後に
「わかった」
とだけなんとかこたえた。
背中をさすり、僕を暗闇に送り出してくれた。
「がんばって!」
「うん」
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39歳になりました。
まだ新しい家族は見つかっていないけど、今日も、明日も、お友達がお祝いをしてくれるそうです。
とりあえず今年も、楽しく、おいしいごはんがにありつけられそうです。
🍚
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