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戯曲の非独立性――演劇の構成要素

※本稿は筆者が大学で受講していた某授業の期末試験で提出した論考を一部修正したものです。したがって、授業の内容を踏まえる必要があったため、論拠が弱い部分があるのは承知の上です。今後もっと突き詰めて考えたいので、発展途上ながら公開します。


 演劇を演劇たらしめる要素とは何か。

 それは時代によっても、ジャンルによっても異なるだろう。しかしとりあえず本稿では、今日の演劇においては、俳優、観客、戯曲、劇場を主たる四つの要素とし、近代化によって19世紀後半に誕生した演出家という役割がそこに加わり、演劇が構成されているということを踏まえて論じることにする。
 以上のことを前提といて筆者が主張したいのは、戯曲は他の演劇の要素から独立することはないということである。
    戯曲はそもそも、舞台で上演されるために書かれているのだから当然と言えば当然なのだが、近代以降は西洋から入ってきた「ドラマ」の概念により、戯曲自体が読み物になり、戯曲は文学作品として上演から独立したように思われた。が、実はそうではない。たとえ文学作品として戯曲を読んだとしても、上演を目的としないレーゼ・ドラマだとしても、その戯曲が未だ舞台にかかっていなくても、必ず他の要素とともに完成するのである。
 活字を読む際には、想像力が求められる。特に戯曲においては、台詞とト書きしか手掛かりがない状態で、その登場人物を自分の想像力で創造していく。ここで私たちは、無意識のうちに、実在する、しないに拘わらず俳優を登場人物に当てはめ劇世界を作り上げていかなければならない。この世界では、読者は観客であると同時に、俳優を動かす演出家なのである。そして俳優と同じように、その劇が行われている空間、つまり劇場をも想像する必要がある。このように、戯曲は現実に舞台で上演されているかどうかは問題ではなく、他の要素から独立することはないのである。
 また、ここまで述べたことは観念的な世界であるが、長らくレーゼ・ドラマだと思われていたものが、突如上演されることもある(例えば、泉鏡花の『夜叉ヶ池』は大正2年1月に「演芸倶楽部」で発表されたが、初演は昭和53年の演劇集団・円の上演がやっとであった)。上演を目的としないというよりは、題材が舞台化困難であるがゆえに上演が避けられ、レーゼ・ドラマに甘んじるというケースもあるだろう。しかしそのような作品であっても、新解釈や技術の進歩により上演可能になると、もはや他の要素からの独立に関する議論は無用である。
 これらのことから、演劇の四要素の一つである戯曲は、他の要素から独立することはないと考える。

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