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53.汀とフラクタル。

先日、森田真生さんと松田法子さんのオンライン対談イベントに参加した。
数学者である森田さんと生環境構築史を提唱している松田さんのこのイベントに興味を持ったのは、森田さんの著書「僕たちはどう生きるか」を読んで以来、その考え方や活動に興味があったからだ。
発酵という現象に興味を持って以来、そこから粘菌のように伸びる好奇心の赴くままに、本を読んだり、ウェブサイトを見にいったり、実際に足を運んだり、味わってみたり、発酵だけでなく、発酵を入り口として気になった「雑」を収集してきた。
その中で、たまたま出会ったのが、「僕たちはどう生きるか」だった。
副題は「言葉と思考のエコロジカルな転回」。
この本と出会って、「学習する組織」や「システム思考」、「生態系」なんかとのつながりがよりクリアになった。
そんなあれこれを経ての今回の対談イベント。
生環境構築史という聴きなれない言葉にもとてもワクワクした。
対談は、延長戦も含めて3時間ほどの大ボリュームだったのだけれど、楽しすぎて一瞬で時間が過ぎていった。
その中で、松田さんが注目している言葉に「汀(みぎわ)」というものがあった。
ぼくは、初めて聞くその言葉に、なぜかとても惹きつけられた。
「汀」を辞書で引くと、こう書いてあった。

陸地の、水に接する所。

土と水の境目。
あいだ。あわい。狭間。分け目。境界線。

汀は、遥か上空から捉えると、その姿は、ペンでスッと引いた一本の線のように見える。
入り組んだ海岸線も、一筆で書けそうな一本の線に見える。
でも、近づいていくと、その線は、実は単純な一本の線ではなく、様々な線が重層的に重なり合って、一本のように見えているだけ。
そして、地図上の汀は、変わらない一本の線に見えるけれど、近寄って見てみると、波による侵食や潮の満ち引きなど、さまざまな現象が絶えず起こり続けていて、一定ではない。
一瞬たりとも同じ状態はきっとないんだと思う。
けれど、人の目には、動かない地図上の一本の線に見えていたりする。
人の時間軸では、それが動いているものだと感じるのは難しいという話もあった。
確かにそうだ。
タイムラプスで何十万年という時間を撮影し、5分ぐらいに縮めたならば、汀も生き物のように蠢いて、その形を変える様子がありありとわかるのかもしれない。
「見えない」=「変化がない」わけではない。
見えないだけで、絶えず、変化は起きていて、境目はいつだって揺蕩っている。
どこからが水で、どこからが土で、なんてことはどこまでいっても、人が恣意的に分けているだけのものなのかもしれない。
そうなると、そもそも分けることに意味はあるんだろうか。
「分ける」ことで「分かる」こともあるから、そういう意味で、「分かる」ための手段としての「分ける」は必要なことだ。
けれど、いつでも、なんでも「分けることで分かる」わけではないとも思う。
そう思ってしまったとしたら、それは人の傲慢さになるのではないか。
言葉は万能なわけではないことを自覚して、自分自身の感覚を磨き、そこで「分けられなさ」を感じることも大事なのではないか。
そして、この「分かるために分ける」と「分からなさを分けずに感じる」もその境界線は揺蕩っているんだと思う。
どっちが正しいかなんてない。
どっちもあるし、その汀は絶えず変化し続けている。
小さな変化が起こる。
その小さな変化が集まって、中くらいの変化が起こる。
その中くらいの変化が集まって、大きな変化が起こる。
その大きな変化が集まって、もっと大きな変化が起こる。
そうやって、フラクタルな構造を持ちながら、世界は絶えず変化し続けている。
部分は全体だし、全体は部分だし。

このあたり、まだまだ言語化が粗いなと自分でも思うけれど、感覚として、この辺りのことは、確かなのではないかという実感がある。

クラスも、職員室も、学校も、そう。
全部繋がっている。
だから、どこへの働きかけも、見える見えないにかかわらず、影響を与え合っている。
そのことを自覚した上で、ぼくは全体の一要素としてどう振る舞うのか。
ぼくを全体として、ぼくの中の要素たちは、どう振舞っているのか。
そのぼくの要素を形づくる要素たちはどう振舞っているのか。
フラクタルは続く。
そんな感覚が、今のぼくには、ある。
木も見て、森も見る。
木と森も、どこからが森かなんて究極恣意的なものでしかない。
そこにも汀があり、それは揺蕩っている。

以前に友人から聞いた。
「3という数字は、有限の極まりであると同時に、無限の始まりである」と。
有限の極まりである3月が終わり、無限の始まりが幕を開けようとしている。
4月、新しく始まることがたくさんある。
その中で、引かないければいけない境界線もたくさんあるだろう。
でも、心に汀を。
いつも揺蕩っているイメージを。
「こうでなければならない」から自由になるためにも、汀という余白を持ち続けたい。

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