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66.(10/365) 夜と朝のあいだ。

今日から3学期がスタートした。
まあ、出勤してからは、子どもたちも元気に登校していたし、その辺のことはどこかで書くタイミングがあれば書こうと思う。
でも、今、タブレットに向き合ってみて、なんかそれを書く気になれない自分がいる。
別に、落ち込んでるとか、全くそんなことはなくて、ただ「書きたい」か「書きたくない」か、あるのは今の気持ちだけ。
自分の「書きたい」に忠実に書くことを続けよう。

で、じゃあ、何が書きたいねん、って話だが、今、頭に浮かんでいるのは、今朝のことだ。
だから、着地点は全く見えていないけれど、自分の気持ちに従って、今朝のことについて書こうと思う。

今朝、5時に起きた。
新年が明けて、やっぱり心機一転の気持ちが結構自分の中にあるのを感じる。
今年の1学期・2学期は、新しい環境に慣れるのに苦労して、日々の忙しさに、自分を保つのにエネルギーを割くことが多かった。
だからこそ、今年度は、そこから抜け出して、もっと面白がっていきたい。
そんな気持ちの一つの表れとして、5時に目が覚めたのだと思う。
前日までめちゃくちゃダラダラと遅くに目覚めて自堕落な生活だったのに。

5時に起きた理由は、歩きたかったからだ。
どこかに「自分の体を使いたい。」「身体性を取り戻したい。」という思いがあったんだ。
昨年を振り返って何よりも思うのは、頭で考えすぎる悪い癖がいろんなところで出ていたということ。
いわゆる、頭でっかち。
インプットに偏ると、そういう悪い癖がぼくの中から出てくる。
ぼくは、その悪い癖をどこかで自分を正当化するために使っていたところがあったんだと思う。

上に書いた昨年の振り返りは、今朝歩いていると自然と頭の中に浮かんできた言葉だった。
考えようと思って考えて出てきた言葉ではなくて、歩いていると無意識に浮かび上がってきた言葉。
歩いていると、普段より体に意識が向かう。
その分、言葉に無頓着になる感じがある。
だから、よく知っているはずの自分の中から、不意に自分の意識に上がってこなかった言葉、上がってきていたはずだけれど押し込めていた言葉、そんなものがスッと浮かび上がってくる感覚があった。

5時に起きて、すぐに外に出て歩こうとカーテンを開けて外を見た。
でも、この時期、5時はまだ真っ暗だ。
さすがに、真っ暗な中を歩くのは気が乗らないなあと思って、少し明るくなるのを待った。
結局、明るくなってきたなと感じたのは、6時半ごろだった。
6時半頃、防寒着を着込んで家を出た。

少し明るくなってきていたとはいえ、今朝は昨日までよりもずいぶん冷え込みが厳しく、防寒着を着込んだはずの体にも寒さが染みた。

あてもなく、なんとなく、気の向くままに歩き出す。
家の前の川を渡る。
少し前におじいちゃんが歩いていた。
ぼくの方がペースが少し早く、おじいちゃんとの距離がどんどん詰まっていく。
でも、そのペースの差は、わずかな差で、おじいちゃんのすぐ後ろを歩く格好になった。
なんだか、自分がおじいちゃんの跡をつけているような感覚に陥って、無性にソワソワした。
でも、一気にペースを上げて追い越そうという気にもなれない。

そんな時、ふと左手の看板が目に入って、足を止めた。

意味はわかる。
それでもぼくは、思わず空を見上げた。
そこには、夜を越えて、明けようとする空がぼくの上にどこまでも広がっていた。

夜と朝のあいだ。
ぼくは、どっちとも言い切れない「あいだ」を歩いていた。
朝になると動き出すものたちは、夜には息を潜めて眠る。
夜になると動き出すものたちは、朝には息を潜めて眠る。
そんな動が静に、静が動になる時間を歩いた。

ぼくが「うまくいっている」と思うとき、そのかげでこぼれ落ちているものがあるんだと思う。
ぼくが「うまくいっていない」と思うとき、そのかげでささやかに育まれているものがあるんだと思う。
世界はままならないなあと思う。
言葉で表した途端こぼれ落ちてしまうものがある一方で、言葉で表すことで初めて姿を現す美しさもきっとある。

世界は、さまざまな両極の間で行ったり来たりしている。
両極の点を全て線で繋ぐと、円になるんじゃないかって思う。
でも、少しずつ両極をつなぐ長さは変化し続けていて、だから、その世界の中心は絶えず、その位置をずらす。

歩くことそのものに意識を集中させている中で、浮かんでくる言葉を捕まえて、こぼして、捕まえて、こぼして、を繰り返す。
気づけば30分近く歩いていた。
そろそろ出勤の準備をしないといけないと思い、帰宅の途に着いた。
家に帰ると、あんなに出た時は寒かった体がぽかぽかと暖かかった。
この暖かさは確かなものなのかなあ、などと考えながら、ぼくは、はっきりと朝の時間が流れる世界の中で準備を進めた。

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