クィアで聴き解くGARNET CROW②~「clockwork」のもうひとつの仮説

前回の記事にて筆者は、GARNET CROW、引いては作詞者であるAZUKI七が、「子を産むことができない」というテーマを持つ「JUDY」を「一線を画す」作品として扱ったという事実に対し、これはなぜなのかというかたちで結んだ。
そこで今回は、最近たまたま聴いて痺れた楽曲「clockwork」を題材に,
このことに迫って行きたいと思う。

「clockwork」は、2008年10月に発売された「百年の孤独」のカップリング曲である。当初この曲を聴いた際、前奏が3rdアルバムの「Crystallize 〜君という光〜」の収録曲である「Endless Desire」に似ていると感じ、かなり気分が上がった。そしてよくよく歌詞を見てみて、これもクィアな一曲として聴き解ける楽曲なのではないかという思いを強く懐いたのである。

なお、この楽曲は「百年の孤独」のカップリング曲というのもあり、「百年の孤独」のモチーフと同様かおそらく通じるものがあるように思われる(本当は「clockwork」が「百年の孤独」に呼応、あるいは共鳴していると言いたい気持ちもあるのだが、残念ながらまだそこまで言い切れるところには至っていない。)。

「clockwork」の歌詞で表現されるモチーフについては、これまたりーぬ氏が記事のなかで言及・考察されているので、詳しくはそちらに譲る。それを踏まえたうえでモチーフをざっくりまとめると、「無限に繰り返す時間、そしてそこで繰り返される人々の生と死」などとまとめられると思う。

りーぬ氏は記事のなかで、「clockwork」の意味するものに対し「輪廻転生説」と「細胞説」といった二つの仮説を立てて分析をおこなっている。歌詞のモチーフはおそらくこのりーぬ氏の二つの仮説に言い尽くされており、これ以上付け足すことは特にない。ただこれにクィアの視点を盛り込んでみると、もうひとつ仮説を生み出せるのではないかと思い筆を執った次第である。

ここで盛り込みたいクィアな視点とは、この歌詞に表される者やその対象となる者が「性を同じくする者」であった場合、どうなるのかということである。

「clockwork」では、平和だろうと戦争だろうと、穏やかだろうと孤独だろうと、時間や人の存在、生と死などはたえず繰り返されるということが歌われている。同時に、当たり前だろうと思っていたその繰り返しが不意に断絶することもあるということに、歌詞に表される者が気づかされてもいる。そしてそのことをきっかけとして、歌詞に表される者は、永遠に繰り返されるものから「ハミダ」すという言うなれば永遠からの(思考の)フェードアウトを思索するようになるのではないだろうか。

そもそもこうした「堂々巡り」は、オスとメスという「番」の生殖により初めて可能となる。しかし日常のなかでは、その可能となるということに一部のマイノリティ以外は気づくことはない。そしてこのことは、マジョリティによる無意識の生殖により糸が紡がれ、リンネし続けることになるのである。
ところがこの歌詞に表される者は、数十年ぶりの嵐が吹き荒れたことにより否が応にもこのリンネが断絶する事態に向き合わざるを得なくなった。「遺伝子のリンネ」は、「番」が「性を異にする者」でなければ「補給」され得ないという事実に直面したのである。

このような仮説を立ててみると、「嵐が吹き荒れ」るということがどのようなことか、「遺伝子のリンネ」とは何かが想像できると思う。
歌詞に表される者は、嵐に打ちひしがれはするがそこに留まるのではなく、勇敢にも「遺伝子のリンネ」から「ハミダシ」、永い、永遠の(と思い込んでいた)輪っかの外を見たいという願望に取りつかれた。
番のようにお互い共に歩む光と影は、生殖を通して遺伝子を補給しリンネさせることのできる「番」ではない。それゆえ、心地よい堂々巡りの波には端から乗ることができない。しかしそうした中で、一縷の望みとして懐いたのが、永遠の(リンネの)輪っかからハミダシ外を見たいという願望だったのではないのだろうか。

ここまで来ればもう、「番のようにお互い共に歩む光と影」がAZUKI七と中村由利を指し、そしてそれが紛れもなく「JUDY」であるというのは、明言するまでもないだろう。
基本的に女性ボーカルが嫌いであったAZUKI七が、中村の歌やコーラス・ワークにベタボレだったという良く知られる言説や、「ゆり七」と称される二人がさも恋人のようにしているPVも、このようなクィアな視点を彷彿とさせる要素であることは言うまでもない。

*付記
「数十年ぶりの嵐」のような自然現象や戦争を彷彿とさせる表現は、この曲が制作される以前に現実に起こった特定の出来事を想定しているものと思われる。しかしこの曲がリリースされた2008年の時点ではまだ、東日本大震災やコロナ禍のような我々の日常を一変させたような未曾有の事態は到来していない。例えば世界中に多くの失業者を生み出したリーマンショックを嵐と見なそうとしても、これが起き世界中に影響を及ぼすのは、「百年の孤独」がリリースされたあとである。
逆に言えば、夜が来て朝が来て目覚めてまた眠るという繰り返しが永遠に続くと誰もが思い描いていた最後の時期に「clockwork」という楽曲は生み出されたことになる。
繰り返しばかりの退屈な日常も決して悪いものではないと、これまで未曽有の事態を経験してきた我々ならばそう思うことも容易いが、そのような事態に世界中が直面する前の最終段階の時期において生み出されたこの曲は、クィアの扱われ方も含めその後の世界の常識を予言的に先取りしたものと言えなくもないだろう。

【参考文献】
りーぬ「Clockworkって結局なに?から考えた2つの仮説」
Wikipedia「AZUKI七」、2023年7月10日 (月) 13:56‎編集版(2023年11月13日閲覧)



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