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老父のうつ病


人生の夕暮れ

家族がうつ病と診断されたら

父がうつになるなんて

これは、86歳の実父と私に今週起こったことです。
私の86歳の父と83歳の母は、マンションで二人で暮らしています。
私は一人娘で、再婚に伴って夫の実家の近くに新居を建てるときに、私の両親も実家をたたんで私の職場近くのマンションに引っ越してきました。

まだまだ二人とも元気ですが、将来的に面倒を見るひとは私のほかにいませんから、元気なうちに体制を整えておこうという気持ちからでしたが、4年前、まだまだ二人は元気で、一緒に遊ぶ氣満々、絵に描いたようなアクティブシニアでした。

でもすぐにコロナ禍が始まり、せっかく引っ越してきたのに、充分に遊ぶこともないまま自粛生活が始まりました。

引っ越してくると同時に、父は私の懇願をうけいれて、車を手放し、電動自転車生活になりました。元気だった父は、私が車で行くのも億劫なくらいの距離を軽々と自転車で走破し、「ええ~!そんなとこまで行ってきたの?」と驚かれるのが自慢のようでした。

新しい土地で、張り切ってもいたのでしょう、毎日元気に出歩いていましたが、3年前の夏にろれつがまわらなくなり、おかしいということで救急車で運ばれ、脳内出血で2か月間入院しました。

ちょうどコロナ全盛のころで、2か月間全くの面会謝絶、心配しましたが、
不死鳥のように蘇り、発語障害が大きく残っていたものの、半年から一年かけてリハビリに通い、完全に克服しました。

それからは、高血圧や、目の病気、手術はあったものの、私の手をわずらわせることなく、自分で通院し、自分で健康管理はできているようでした。

異変のきっかけははっきりしています。

今年、マンションの自治会の当番戸にあたっており、理事会のくじ引きで理事長があたってしまったのが10月。

こんな高齢でも、引き受けなければならないのか?と頭を抱え込んでいましたが、全員平等、拒否権なしということでやむなく引き受けました。

私は、まぁ管理会社もついていることだし、皆さんに助けられながらするのだろう・・くらいに思っていましたし、気楽でのんきな父なので、まぁなんとかなると思っているように見えていました。

ところが、いま思うととんでもないことだったのですね。
理事会はいろいろな議題が紛糾し、管理会社と住人の対立もあり、とても父の手に負えるようなものではなかったようです。

しょうもないことをいって、センスのないギャグで人を笑わせるのが好きだった父が、最近元気ないな・・と思っていたのが12月はじめ。

でもそんな追いつめられているとは思いもかけず、先週理事会から帰ってくると床に倒れこんで泣き出した…と母から聞いてはじめて、これはまずいかも、管理会社に話して、理事長の責をおろしてもらわなければ・・と思っていた矢先、父が首をつろうとした・・と、再度の電話がありました。

幸い、母の発見が早く事なきをえましたが、一刻の猶予もならないのはあきらかでした。

とにかく理事長という重責が、父を追いやったのは確かですから、どうしたら辞めさせてもらえるかを聞く。私の気持ちはそこだけでした。

管理会社に電話すると、さすがにそれはまずいとは思っていただけたようで、診断書を提出すれば、理事会に諮るとのこと。

その日は日曜日だったので、翌日月曜日に以前脳内出血で入院し、その後高血圧の薬をもらいに通院していた病院に出向き、診断書を出していただくことにしました。

まだこの時点では、高血圧が悪化して正常な判断力が失われているのだろう、血管が破けて、出血が広がり、取り返しがつかなくなる前に受診し、脳内出血の恐れあり、理事長のような重圧の負荷には耐えられない…というような診断書を書いてもらうことだけを思っていました。

父は暗い仮面をつけたような表情のまま病院へは抵抗せずに一緒に行き、私の横に座っています。

私は救急車で運ばれたときと、退院のときくらいにしか付き添っていませんから、病院に付き添いでいくのは久しぶりでした。

救急車も受け入れているような、地域の中核となる私立の総合病院。
古い歴史があり、でも施設は新しく刷新されていて、明るく広々とした感じではあります。

長い長い待ち時間でした。年末ということもあり、待合室はごったがえし、「いつまで待たせるんや」と、ぼそぼそつぶやくよそのおじいさんのいらだった声が、なんとなく不穏で、場に流れる氣が濁っている感じ。

2時間ぐらい待って、医師の診察です。
以前の主治医とは違うので、娘が付き添ってきた理由を手短かに話します。
なぜ手短かというと、まだ待合室には人があふれており、看護師さんもせわしなく行き来し、ひっきりなしにメモがもちこまれて、急がなければいけない雰囲気に圧されるのです。

さっそく脳のCTを撮るようにいわれ、これはすんなりと撮影していただき、再び医師の診察を受ける流れはスムーズでした。

医師は画像を見ながら、「脳の中はきれいやね、出血もしてないし、3年前と比べて萎縮もしていない」と仰り、
「うつ病やね、軽いうつの薬は出すけど、この病院には精神科も心療内科もないし、紹介もできないから、自分で探してね。どこも混んでるらしいから、電話帳を上から片っ端からかけるといいよ」

私は脳内に出血がないことにほっとしながらも、確かにうつ症状は強くでているけれども、こんなに簡単にうつ病と診断書に書いて下さると思っていなかったので、

「うつ病だけで、一般のひとはわかるでしょうか?理事長の責務は果たせないと書いていただけないでしょうか?」と聞きました。

「うつ病なんやから、理事長なんかできへんのは、素人でもわかるはずや、まあでもそしたら、軽作業も禁ずと書いときます」と仰り、その通りに書いて下さいました。

そして、従来通りの高血圧の薬と軽いうつの薬、同じく軽い睡眠導入剤を処方してくれました。

医師は説明する私の顔はもちろん、父の顔も一度もみませんでした。

わたしは、30代のとき、関節リウマチの症状でいろいろな病院を転々と受診していて、そのときに病院というものに色々な感慨をもちましたが、寛解してからは、ながらく西洋医学の病院というものから遠のいていましたから、ああ、そうだった、病院ってこういうところだったと思い出しました。

医療保険の対象は人ではなく病気だし、数値や画像に現れるものだけです。

それがよくわかっているので、自分自身が少しの不調があるときは、漢方内科や漢方薬局にお世話になるようにしてきました。

お医者さまじたいが、いまの医療制度に矛盾を感じ、より患者に寄り添えるような態勢をとれるような小さなクリニックが少数ですが、よく探せばあり、そこに行けば非常に心温まる医療が受けられたので、わたしは大病院の大変さをすっかり忘れていました。

あれだけの患者さんに医療を提供しようと思えば、数をさばく体制にならなければ不可能です。
必要最小限の労力で、最大限のパフォーマンスをだそうと思うと、当然のことながら、効率よく回転させなければなりません。

どう考えても、ひとりひとりの患者に寄り添うことなんて不可能です。

担当医師の姿勢はすごくまっとうで、職業的使命感にあふれ、的確でした。

そこにあたたかさとか、やわらかさ、優しさを求めるのはお門違いもいいところです。

横で一生懸命自分の状況を訴えようとして、どもって言葉にならない父をうながし、診察室を出ました。

その時にえらいことになったな・・・と思っていましたが、とりあえずは診断書を出してもらえたことにホッとして、これからもっと大変になることには気づかず・・というか、あえてこれで大丈夫と自分にも両親にも言い聞かせて、一通り服薬、診断書を管理会社に提出して、マンションに泊まりました。

うつ診断一日目の話でした。


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