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ウルトラの彼女

ひとは、競争するために生きているのではない。

でも、たまに競争しても悪くない。

妻はいう。

「あなたには、マラソンがよく似合う。ひとりでできるスポーツだから。」

妻の言うとおり、マラソンはひとりでできるスポーツだ。でも、ひとりだけで走るのではない。多くの人間といっしょに走る。

これは、わたしが初めてウルトラマラソンを完走したときの記録だ。

ウルトラマラソンは、100kmを6時間から15時間かけて走るスポーツだ。完走できるのは、天候やコースにもよるが、だいたい6~8割程度とされており、フルマラソン(42.195km)と比べると厳しいレースだ。

まだ、日が明けない頃にスタートし、制限時間ぎりぎりの14~15時間ペースで走ると、ゴールは日没後となる。コースは、平坦なことはまれで、山道、川沿いなど起伏に富んだコースがほとんどだ。だいたい55~65km地点で、ステーションとよばれる大きな休憩所がある。ランナーたちは、そこに、お昼くらいまでに到着することを目指す。

わたしは、マラソンをひとりで走る。マラソンは、自己との戦いだと考えているからだ。

この日もスタートは、ひとりだった。

小雨のなか、スタートしてしばらくは順調だったが、10~20kmにかけて山越えがあり、だいぶ脚にきた。何とか40kmくらいまではたどり着けたが、もうかなり減速していた。ステーションまでたどり着けるかどうか、そう思っていたとき、後ろから鈴の音が聞こえてきた。振り返ると、完走ペーサーと続くひとかたまりのランナーたちが見えた。

完走ペーサーは、ランナーたちを完走に導くためのペースメーカーだ。完走ペーサーより後ろになれば、完走が危うい。わたしは焦った。ペースを上げて、なんとか完走ペーサーに追いつかれないようにとがんばった。でも、ひとりで走っていて、後ろから追い上げられると、心理的にかなりキツイものがある。

なかなかペースがあがらない。しだいに完走ペーサーの鈴の音が大きく迫ってきた。

集団に飲み込まれる瞬間は実にイヤなものだ。必死にあがいてペースを上げようとしたが、ついに集団に捉えられてしまった。

シャンシャンシャンシャン、鈴の音が近づいてくる。

次の瞬間、奇跡が起こった。

綾瀬はるか

横に並んだ完走ペーサーを見ると、どうみても綾瀬はるかだ。まるで、天使が降りてきたかのようだ。

「いいペースでーす、ナイスラン。」

彼女からエールが贈られた。

この集団に遅れてはならない。もがきにもがいて、ペースをあげ、集団の中に割り込んだ。

集団に入ると不思議と楽になった。周りとペースを合わせて走る。出すぎないように、落ちないように調整しながら走る。すると、ひとりで走るよりずいぶんと楽に走れるようになっていた。

マラソンは、ひとりで走る自分との戦いだ。でも、みんなといっしょに走る方が楽だ。

ようやっとのことで、60kmのステーションに到着した。ここで15分の休憩をとり、再出発とのことであった。トイレと水分補給、軽い食事を済ますと5分余裕があった。

わたしは、先に出発することにし、ひとりで走り出した。でも、前のようにはいかない。とたんに苦しさが襲ってきた。70kmくらいになると、リタイヤしたい気分になってきた。

そんな時、また、シャンシャンシャンと鈴の音、完走ペーサーたちの集団がやってきた。

「いいペースです、ナイスラン。」

彼女の声だ。わたしは必死にこの集団にくらいついた。

この集団は、彼女ともう1人の男性ペーサー、その後に10人くらいのランナーが付いていた。ゴール時刻は、制限時間14時間の10分前13時間50分に設定されている。わたしは、この集団に入って、ゴールを目指すことに決めた。

わたしたちは、3~5kmごとに設置された給水所で1~2分間の休憩をとった。給水所での休憩を繰り返すごとにメンバーが入れ替わったが、85kmの地点では、先頭に2人のぺーサー、続いて5人のランナーという陣形ができ上がり、みんな互いの顔がわかるまでになっていた。

「ナイスラン、いいペースです、完走できます。」

彼女は、追い抜きぎわに、ランナーに声をかける。
ぺーサーに付いていければ完走、おいてかれると、完走は無理。みんな必死に食い下がろうとしていた。

雨がきつくなってきた。アスファルトの上に水たまりができた。

「水たまりです。」

彼女は、水たまりを左右によける。わたしも、彼女に従ってよけながら、「水たまりです。」と言葉を後ろに送った。

彼女を追い抜いてもオーバーペースになって失速するだけ、彼女についていけないと置いてきぼりになって完走できない。彼女のペースに合わせ、彼女の方向を信じて付いていくしかなかった。

彼女は、リーダーだった。

わたしを含む5人は、彼女に付いて走る。彼女の指示に従って水たまりをよけていく。

わたしたちは、フォロワーだった。

水たまりをよける際には、互いのじゃまにならないように距離を見計らってよける。これを繰り返すと、彼女ともう1人のペーサーが頭、5人がつばさに見える鳥のような陣形ができ出来上がってきた。

わたしたちは、チームだ。

あたりが暗くなってきた。みんな頭に着けたライトを点灯しはじめた。彼女は、リュックからペンライトを取り出し両手に持って後ろにかざした。

足元が明るくなった。

ゴールはまだ先で何も見えない。彼女の光だけが頼りだった。

彼女が発する光を見つめ、みんな次の一歩を踏み出す。

一歩、一歩、目の前の光に向かって、しっかりと。

水たまりの数が増えてきた。右に左に、私たちは水たまりをよけた。しだいに、彼女と同時にときには彼女より早く水たまりを見つけ声を出せるようになってきた。

「右、水たまりです。」

「左、水たまりです。」

みんな鳥のつばさを広げたり縮めたり、右に左に旋回したり、水たまりをよけた。同時に「水たまりです。」と言葉を後ろに送った。

わたしたちは、彼女を支える翼になった。

ゴールまで1kmの地点にたどり着いた。彼女ともう1人のペーサーは、ここで止まった。後から来るランナーを励ますためだ。

「ゴールまで後1km、がんばってください。」

彼女の言葉を後に、わたしたちはゴールに向かった。

彼女がいなくなった後も陣形はくずれなかった。わたしが先頭、4人がその後に付いた。彼女がくれたペースを守り、翼は進んでいった。

あたりが明るくなってきた。ゴールが見えた。少しペースを上げる。

ゴール、ゴール、ゴール、ゴール、ゴール。

わたしたち5人は、抱き合った。姿かたちも齢も異なる5人が、雨の中、びしょびしょの肩をたたき合い、抱き合った。

マラソンは、ひとりで走るレースだ。ひとりひとりが自分と戦っている。でも、彼女のようなリーダーがいて、みんなで歩調を合わせて一歩一歩を確実に進めれば、100kmという距離も完走できる。チームのよさって、そんなところにあるのではと思った。

(おわり)

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