「天気の子」を見て感じたこと

新海誠の「天気の子」を見てきた。

あの大ヒット作「君の名は」から3年。個人的にも「君の名は」の世界観には大きく影響を受けたし、「君の名は」は本当に素晴らしい作品だと思う。

「天気の子」は「君の名は」の次作のような扱いでメディアなどにも取り上げられている作品なので、「君の名は」に近いのではないかと心の中で思っていたりもしていた。

しかし今回、「天気の子」を見て、良い意味で「君の名は」の期待を裏切られることになった。「君の名は」と一味違った奥深さを感じることができた。

「君の名は」は東京に住む主人公「滝」と、飛騨の女子高生「三葉」がある日突然入れ替わり、その後2人はある「出来事」を止めるために立ち上がる…と言う作品だった。今回の「天気の子」も、ストーリー展開としては「君の名は」と似ている点も多いが、前半である程度予測していた展開を裏切る結末に驚かされた。

東洋思想の根底にある『天』を共有する「天気の子」

天気の子を見て、真っ先に感じた感想は東洋的世界観を共有している作品であると言うことだ。気象に関わる漢字には天気・天候など「天」がつけられることが多い。「天」は東洋思想において人の上の存在、人を超えた存在を表すのだという。

「天気の子」の舞台は雨が連日振り続ける東京。そんな中、離島から上京してきた家出少年の「帆高」は天気を変えることができる少女と出会い、雨の中の東京に晴れ間を作るための立ち上がる。しかし帆高は、少女の「悲劇」の運命を知ることとなる。しかし大切なものを守るために、「天」の運命に従う結末となる…「東京」と言う日本の近代化を象徴する都市が、東洋の「天」の力に逆らうことができず、元どおりの姿へと戻っていく。

これは西洋社会の根底にある「人間は自然を支配することを神から許されている」といった人間中心主義への反論でもあるのではないかと個人的には考えている。

「天気の子」を見て、東洋における「自然=天」の偉大さ。そして東洋の一員でありながら、脱亜入欧を目指し近代化へと突き進んできた日本が、これから歩むべき道は何か。と言うことを改めて考えさせられたのだ。

今、欧米を中心に自然保護運動が始まっている。しかし、自然環境を改善するためにもっとも大切なことは何だろうか。それは「人間は自然を支配することを許されている」と言う人間中心主義を廃することではないだろうか。

これからの社会において大切なことは何か。我々「東洋」が共有してきた、自然が中心となり社会が循環しているという考え方を、広く世界に訴えかけていくことが必要である。天気の子を見て、深く実感した。

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