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祝!!元ドラゴンズの谷繁元信氏が野球殿堂入り!!谷繁元信氏の現役時代の凄さとは!?

プロ野球選手において最高の名誉である野球殿堂入り。この殿堂入り選手が1月18日に発表され、2024年度の殿堂入り選手にあってプレーヤー表彰では、メジャーでも大活躍を果たした黒田博樹氏、そして横浜・中日で長年捕手を務め通算出場試合数NPB記録保持者である谷繁元信氏が受賞しました!!
また、特別表彰として戦後審判として野球の発展に貢献した故・谷村友一氏が受賞しました。
おめでとうございます!!


我らがドラゴンズからは谷繁元信氏が受賞!!
まさに名実ともに球界最高峰の選手へと登り詰めたことになります。

谷繁元信氏が引退して8年以上経っていますが、そこで谷繁元信氏の現役時代がどれほど凄かったのか改めて振り返ってみましょう。


谷繁元信選手とは?

生年月日 1970年12月21日(53歳)
出身地 広島県庄原市
1988年 横浜・ドラフト1位
右投右打
捕手/一塁手
横浜-中日

通算成績
3021試合 打率.240(10336-2108) 229本 1040打点 OPS.701 32盗塁

個人タイトル
ベストナイン1回(1998年)
GG賞6回(1998年、2006年、07年、09年、11年、
12年)
最優秀バッテリー賞4回(1998年、2004年、06年、
11年)

①横浜時代 ハマのレギュラーへ

谷繁元信選手は江の川高校で強肩強打の捕手として活躍し、甲子園に2回出場しました。
1988年のドラフト会議では横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)からドラフト1位で指名され、鳴り物入りでプロ野球の世界へ入りました。
また捕手として珍しい背番号1を背負いました。

高卒1年目の1989年からその才能の片鱗を見せるかのように、OP戦で巨人のエース斎藤雅樹投手から本塁打を放ち、開幕一軍入りを果たすと、なんと80試合も起用され、打率.175(154-27) 3本 10打点 OPS.520
という成績を残しました。

その後も一軍で起用され続け、着実に実力を付けていくと、1993年には大矢明彦バッテリーコーチが就任したことにより、捕手としての全てを叩き込まれ一気にレベルアップ。同年には当時の自身最多出場となる114試合も起用されました。
なお背番号にあっては同年に「捕手だと『1』の数字が防具に隠れて見えない」という理由で背番号8へと変更しました。

1996年にはリーグ1位となる盗塁阻止率.416をマークし、打撃面でも、
127試合 打率.300(380-114) 8本 54打点 OPS.836
と初の打率3割を記録し、正捕手の座を我が物へとしました。

②マシンガン打線の一角 球界屈指の捕手へと成長

1998年には権藤博監督が就任すると、選手の自主性を重んじる野球、チーム作りにより一気にチームが活性化。
当時の球界最強打線ともいえる「マシンガン打線」を形成し、打って打って打ちまくりチーム38年ぶりのセ・リーグ優勝、日本一となりました。

谷繁元信選手も正捕手として「マシンガン打線」の8番打者として活躍し、
134試合 打率.254(461-117) 14本 55打点 OPS.745
という成績を残し、自身初の個人タイトルであるベストナイン、GG賞、さらには“大魔神”佐々木主浩投手と共に最優秀バッテリー賞を受賞し、球界屈指の捕手となりました。

③FA宣言へ MLB移籍断念も中日へ移籍

2001年には森祇晶監督が就任するも、以前までの権藤博監督の選手の自主性を尊重する野球を否定し、権藤野球とは正反対となる監督が主体となり選手を動かす勝敗重視の緻密な野球を押し進めました。

さらに森祇晶監督は谷繁元信選手の捕手目線のリードが気に入らず、「ベンチの指示通りに投手にサインを出せ」というように、ベンチからサインを出していたそうです。
さらに谷繁元信選手は当初は試合中、森祇晶監督の隣に座り話を聞いていましたが、森祇晶監督が谷繁元信選手の陰口を言っていることを人伝に聞き、結果、森祇晶監督の性格に嫌気が差してしまい、森祇晶監督から離れて座るようになったそうです。

谷繁元信選手は野手陣の中で、最後まで権藤博監督の方針を支持していたためか、次第にチームに居場所もなくなり、結果2001年オフにFA権を行使し、メジャー移籍を表明しました。

しかしながらメジャー球団から良い条件が得られなかったため、メジャー移籍を断念。そして森祇晶監督との確執もあったため、中日ドラゴンズへ移籍しました。

④中日時代 ナゴヤドームを苦にしない強打を見せる

中日ドラゴンズへ移籍し背番号7を背負うと、初年度となる2002年は、規定打席到達者の中で最低打率となりましたが、
130試合 打率.215(446-96) 24本 78打点 OPS.727
という成績を残し、ナゴヤドームという広い球場を苦にしない強打を見せました。
なお2002年はラビットボール使用です。
また、8月1日には川上憲伸投手のノーヒットノーラン達成時の捕手として、大記録達成に貢献しました。

ちなみに2023年の細川成也選手の成績は
140試合 打率.253(518-131) 24本 78打点 OPS.780
となり、本塁打、打点が同じです。

2003年は怪我により1996年から続いていた連続規定打席到達は途切れましたが、
112試合 打率.264(367-97) 18本 69打点 OPS.816
という好成績を残しました。

⑤オレ竜野球の要へ 谷繁元信選手の本領発揮

2004年から落合博満監督が就任。最早説明不要、中日ドラゴンズ球団史上類を見ない黄金時代が到来しました。

また、背番号にあっては「正捕手のエースナンバーは森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22」という落合博満監督の持論により、背番号27へと変更。これが現役引退まで付ける谷繁元信選手の代名詞ともなる背番号となりました。

この2004年の時点でプロ16年目のベテラン。まさに捕手としての経験値と選手としての実力がピークに達した年に落合博満監督の卓越したチーム作りや采配が谷繁元信選手のリードと見事にハマり、チーム5年ぶりのリーグ優勝に貢献。
日本シリーズでは逆転満塁ホームランを放ち見事な活躍を見せましたが、日本一とはなりませんでした。

また、同年には
121試合 打率.260(408-106) 18本 68打点 OPS.751
という成績を残し、エース川上憲伸投手と共に自身6年ぶりとなる2度目の最優秀バッテリー賞を受賞しました。

⑥オレ竜黄金時代 最高峰の捕手へ

2006年には第1回WBCの侍ジャパンに選出され、控え捕手起用ながらも世界一に貢献。
また、ペナントレースではチームは貯金33という破竹の勢いで2年ぶりのリーグ優勝を果たしました。
谷繁元信選手も正捕手としてリーグ優勝に貢献。なおプロ18年目の大ベテランであるため打撃に関しては衰えもあり、
141試合 打率.236(428-100) 9本 38打点 OPS.700
という成績となりました。
それでもエース川上憲伸投手と2年ぶりの最優秀バッテリー賞、また8年ぶりのGG賞を受賞しました。
また、9月16日には山本昌投手のノーヒットノーラン達成時の捕手として、大記録達成に貢献しました。

2007年には打撃面では、
134試合 打率.236(382-90) 6本 44打点 OPS.669
という成績なり、3年連続規定打席到達者リーグワースト打率という日本記録を作るも、巧みなリードで投手陣を引っ張り、チーム53年ぶりの日本一に貢献。
盗塁阻止率.404とリーグトップの成績を残し、GG賞を受賞。
日本シリーズ第5戦では山井大介投手-岩瀬仁紀投手を見事にリードし、継投完全試合達成の女房役として貢献しました。

そして2009年には怪我により1か月離脱するも、プロ21年目の大ベテランながら守備面では衰えを見せることなく自身初の守備率10割を達成し、3度目のGG賞を受賞。

2010年には怪我や休養のため欠場することが多くなりましたが、それでも正捕手として、
110試合 打率.244(308-75) 7本 32打点 OPS.703
という成績を残し、チーム4年ぶりのリーグ優勝に貢献しました。

⑦40歳でも球団史上初のリーグ連覇の立役者に!?

2011年には交流戦の試合中のクロスプレーにより左膝内側側副靭帯を損傷し、2か月離脱。
それでもプロ23年目の大ベテランながらも正捕手として投手陣をリードし、チーム史上初となるリーグ連覇達成に貢献しました。
打撃面では、
102試合 打率.256(277-71) 6本 31打点 OPS.706
という成績を残しました。

なお、当時は飛ばない統一球初年度、東日本大震災による節電のための時間短縮ルールである延長戦で試合時間3時間30分を越えると試合終了という3時間30分ルールの導入のため、NPB全体で超投高打低。

さらにはドラゴンズも全ての打者が打撃不振に陥ったことにより、8月末に唯一好調だった谷繁元信選手が5番打者起用されたり、さらには8月25日には自身初となる一塁手起用をされ、5番ファーストでマルチ安打を記録。

さらにさらに9月末には再び5番打者として起用され、10試合連続打点を記録し、チームの逆転優勝の原動力となりました。

しかしながら、CS、日本シリーズでは極度の打撃不振に陥ってしまい、ポストシーズン43打数連続無安打という不名誉な記録を作ってしまいました。

それでも2年ぶりのGG賞を受賞し、エース吉見一起投手と共に自身4度目となる最優秀バッテリー賞を受賞しました。

⑧NPB最遅記録で通算2000本安打達成

2012年には高木守道監督が就任。プロ24年目の41歳ながらも自身5年ぶりの規定打席到達。さらにはプロ入り1年目からのシーズン連続本塁打記録となる24年連続本塁打を放ち、プロ野球記録を樹立しました。
打撃面では、
134試合 打率.228(386-88) 5本 32打点 OPS.627
という成績を残し、2年連続GG賞を受賞しました。

2013年の5月6日には通算2000本安打を達成。プロ25年目、9693打席目での達成はプロ野球史上最遅記録となりました。
さらには6月28日は山井大介投手のノーヒットノーラン達成時の捕手として、自身3度目の大記録の達成に貢献しました。

⑨青天の霹靂 選手兼任監督へ就任

2013年はチーム12年ぶりのBクラスとなる4位に転落し、オフに高木守道監督が退任しました。
次期監督が一体誰になるか当時の多くのファンが予想しましたが、なんと谷繁元信選手が選手兼任監督としてドラゴンズの一軍監督に就任し、さらには谷繁元信選手兼任監督を支えるように落合博満氏がGMに就任し、森繁和ヘッドコーチが復帰しました。

まさに青天の霹靂。NPBでは2006年のヤクルトの古田敦也選手兼任監督以来、ドラゴンズとしては野口明選手兼任監督59年ぶりの選手兼任監督が誕生しました。

2014年には野村克也氏が保持していたNPBシーズン連続本塁打記録を塗り替えるシーズン26年連続本塁打を達成。
さらにオールスターにも選出され、選手としてまだまだ健在さを証明しましたが、打撃面では、
91試合 打率.195(226-44) 1本 23打点 OPS.573
と選手兼任監督の負担や衰えが隠せなくなりました。
また、監督としてはチームは4位に終わりました。

⑩そして現役引退 監督専任へ

プロ27年目の2015年も選手兼任監督を続行。
しかしながら自ら若手へと託す起用を取り、21年連続で継続していた開幕スタメン記録がストップ。
それでもシーズン連続本塁打記録は継続し、シーズン27年連続本塁打記録という不滅の大記録を樹立しました。

そしてついには、野村克也氏が保持していた永久不滅の大記録であったNPB通算出場試合数である通算3017試合を見事塗り替え、通算3021試合出場というNPB新記録を樹立しました。

そして9月15日に選手として現役引退を表明し、来季から監督専任としてチームを指揮すると発表しました。
なお現役最終年の成績は、
30試合 打率.277(47-13) 1本 4打点 OPS.703
となりました。
なおチームは5位に終わりました。

⑪監督専任もチームの低迷は止まらず途中休養 チーム19年ぶりの最下位に沈む…

選手として現役引退し、チーム45年ぶりの3年連続Bクラスに低迷するチームを浮上させるために監督専任となった2016年でしたが、結果として全くチームの低迷は改善できず、8月9日に休養が発表され、事実上の監督解任となってしまいました。

以降は当時の森繁和ヘッドコーチが代行監督としてチームの指揮を執りましたが、チームは19年ぶりの最下位に沈みました。

なお翌年からは森繁和ヘッドコーチがそのまま正式に監督に就任しました。

ちなみに谷繁監督としての詳細についてはこちらにまとめてあります↓↓


最後に

私はドラゴンズ時代の谷繁元信選手しか現役時代のプレーを見ていませんが、数多くの投手をリードし黄金時代を支えた素晴らしい選手であると感じています。

今回の野球殿堂入りは谷繁元信選手の実力、功績を考えればむしろ当然であると言えます。

また、TV番組で多くのドラゴンズの投手たちが、
「谷繁さんがリードしてくれるから安心した」
「谷繁さんのミットめがけてがむしゃらに投げた」
「谷繁さんのおかげで成長できた」

等と数多くコメントしているのを見てきましたので、絶大な信頼を得ていたことが伺いしれました。

ゲームでもパワプロでは谷繁元信選手には「キャッチャー◎」「キャッチャーA」という投手の能力を底上げする最強クラスの特殊能力が付いているので、ゲームでも谷繁元信選手の凄さが伺いしれます。

谷繁元信選手の代名詞「FBFBB」

ちなみにパワプロ2014のOPではドラゴンズの選手代表として谷繁元信選手兼任監督が選ばれてましたが、この谷繁元信選手めちゃくちゃカッコいいです。


監督時代はチームが低迷し、結局途中休養で球界から去ってしまいましたが、現在はYouTubeやTVなどで当時の監督就任の経緯が色々明かされているので、ある意味当時のドラゴンズの迷走に巻き込まれた被害者でもあったと言えます。

現在はプロ野球解説者としてTVに出演していますが、谷繁元信氏の解説は捕手目線で解説してくれるのが、聞いてて物凄く野球脳がずば抜けてることが分かります。
今後、谷繁元信氏みたいな選手は二度と現れないかもしれません。

それでも谷繁元信氏を目標とする未来の選手が出てくると思います。
プロ野球殿堂入りはまさにプロ野球選手として最高の栄誉。
今後も谷繁元信氏の活躍に期待しましょう。

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