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第4章 カラフル激情(前編)

すぐにミャンマーへ飛んでいった。ギャンブル依存症に陥った俺にとって、パチンコ屋のない国への逃亡は、皆にはちっぽけなことに見えるだろうが、一つの大きな決意の現れだった。

{はじめに言っておくが、この話は「俺はこの世界になくてはならない、大きな社会的影響力を持つべき人間だ」という根拠のない圧倒的な自己肯定感を持って育った俺の自叙伝だ。人名/組織名/他人の略歴は架空だが、他はすべて実話で構成している。}

同級生はみな初任給やらボーナスやらを気にしつつも期待を抱いて一歩を踏み出す中、俺は金や待遇のことなど一切頭になく、「物理的に日本から離れて働けるのであれば何でもいい」と、修学旅行で一度だけ使ったスーツケースに最低限の荷物を詰めて旅立った。

一般的な目に晒せば、俺はどこかで間違えたと言われるかもしれない。俺はどちらかといえば学業やスポーツも出来る方だった。小学生の頃はクラスで1番の成績であった、中学では少し踏み外したが、それでも250人いる一学年の中で20番目くらい。部活では副キャプテンを務めていたし、地区の選抜チームにも選ばれていた。その後、高校には進学せず、高等専門学校という国立の教育機関に入学した。ざっくりいえば高校と大学の中間って感じの5年制の学校だ。当時の偏差値は65くらいだったと思う。

ここから転落し始めた。4年次で留年、翌年中退。おそらく家族しか知らないが、留年も中退もすべてパチンコが理由だ。特に◯楽というパチンコメーカーが出していた”ぱちんこ◯◯◯48◯形◯次”という機種には短期間で40〜50万の金をつぎ込んだ。当時、学生身分の俺にとっては大金だった。

それはさておき、高専中退後、正直俺は期待に胸を膨らませていた。学費を払っていた両親には悪いが、中退したことで心の箍が一つ外れた気がしていて、中退できて良かったとすら思っていた。俺は何者にだってなれるし、無数の選択肢があると考えていた。

高専を中退してすぐ、叔父の知り合いがミャンマーで若い日本人スタッフを求めているという話を聞きつけて、強制的に日本から離れられると考えた俺はその話に飛びついた。陳腐な表現だが、本当に失うものは何もなかったので即決だった。

ミャンマーでの初出勤前に就職先の社長と会食があった。社長は恰幅のいい老人、いや、小太りの老人だ。何やら怪しげな雰囲気を持ち、まだギラギラした目をしていた60代の老人は、もともと日本で不動産仲介の会社を運営していたらしい。その会社は2年前に譲り、ミャンマーには去年たどり着いたと。まぁ互いの過去や世間話でその場は和気あいあいと幕を閉じた。

翌日からは必死に働いた。聞けば、会社は2ヶ月前にできたばかり。収益基盤も何もなく、事業を一から立ち上げている最中だった。若造の俺にいきなり大きな裁量を与えてくれたことで、苦しかったが俺は頑張れたし、ビジネスとして結果も付いてきて、毎日、充実感を得ていた。朝が苦手な俺は遅刻することは多々あったが、仕事に対する情熱は買われ、すぐにマネージャーというポジションに就任し、ミャンマー人の部下もできた。俺の中では、俺の人生が上向きに変わりつつあるという実感があった。

ただ、俺もまだ20歳の青年だった、ミャンマーで経験するのはもちろん仕事だけではなかった。

後編へつづく

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