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去年のドイツ旅行記2

Berlin day1

 フランクフルトから高速鉄道で4時間。列車を出て「都市度が高い…!」とベルリン中央駅の構造や人種の多様性に首都に来たことを思う。
 もともと今回の旅の第2のきっかけが、ドイツのTVドラマ『バビロン・ベルリン』縁の地に行ってみたいという、ミーハーゆえに熱いもので、乗り換え駅のアレキサンダープラッツなど、ここがタイトルバックにあった…!元警視庁舎のあった…!と興奮していた。現代の景色を見ながら気持ちは20年代にトリップしかける。原作やサウンドトラックまで購入してしまったが、そのすべてを生んだ今のベルリンが私は非常に気になっていた。

 夜の先約の前にJewish Museumを訪れた。オフシーズンだからか、1階の展示が閉まっていたため地下階と2階の企画展を観る。地下階の展示は建築一体型で、今まで訪れたJewish Museumと比べ、ものの展示自体は少なく、歩きながらホロコーストを考える余白を意図的に作り出していた。展示はファミリーヒストリーに特化した文脈のある物が並んでいて、持ち主の人生の多くが収容所で暴力的に中断、終了させられている。残った家族の品だけが、現代に至るまで彼らの存在を無言で伝え続けている。中庭の柱型の彫刻に落書きがされてあり、無言の弱さと強さを思う。
 2階の企画展は大きく、複数作家がパレスチナ・イスラエル問題をテーマにした写真展だった。このテーマに特化した展覧会は今まで見たことがなかったが、思えばアメリカよりもドイツでの方が政治的にやりやすいのかもしれない。両サイドの視点で撮ったもの、子どもにカメラを持たせて撮ったものなど、視点も多様だ。Jewish Museumでこうしたものを取り扱うこともまた、問題が過去に終わらないものであることを示していてバランスの良さを感じた。

 ベルリンはバスと地下鉄移動が主だった。何度も見かけるテレビ塔に興味をそそられるも、2日しかいられないので、のぼるのは次回以降に。 
 翌日の朝食を買いにスーパーへ入った。コイン式のカートやかごの返す場所など細々としたことに戸惑うが、ベルリンの人たちは向こうから話しかけてくれるなど優しかった。

 夜は共通の知人も多かった、ベルリンで建築の仕事をされている女性にお会いした。彼女が見つけてくださったドイツ料理の美味しいお店で、看板犬が人懐っこい。彼女は多くの質問に丁寧にこたえてくださり、私も想像と現実をすり合わせながらこの都市をまた少し知ることができた。国外で頑張った人がこうして自分で第二の故郷を持つ姿はかっこいい。
 りんご酒で割ったビールが爽やかで美味しかった。ビールの価格自体とても安い。時間が経つにつれ店も満席になり、みんなビール片手に何を話しているのだろうと見ていた。ベルリンで生活する人たちに少し溶け込めたような気がする、良い土曜日の夜だった。

Berlin day2

 ベルリンで迎えた初めての朝。フランクフルトより寒い気がする。しかしこの日はイベント盛り沢山で、気持ちは高ぶっていた。 

 午前中に元防空壕のアートギャラリー見学が控えていた。それまでの時間、歌劇場など見れないものかとベルリンの上野のような場所を散策。美術館の古い柱に激しい弾痕を発見した。ここは前線だったのだろう。ベルリン大聖堂は礼拝中で入れなかった。結局この地区で入れたのは元新衛兵所の戦争メモリアルだけだったが、後から調べると歴史は古く、有名建築家ら(ペーター・べーレンス等)がコンペで設計案を競ったり、メモリアル自体の意味の変遷があることが分かった。
 この建築は元々衛兵所として19世紀に作られたが、WW1後ハインリヒ・テッセナウが手がけ戦争犠牲者のための慰霊碑となる。WW2後は、WW2を含めた戦争犠牲者のための慰霊碑となり、東西ドイツ統一後はまた内部を替えて今のかたちとなったようだ。
 真ん中にはピエタ像と思しき彫刻とシンプルなプレート、その上に一輪の白薔薇が供えられていた。死者のために、都市の中心にこれだけ大きな空間を用意すること自体が追悼になっていると思った。
 WW1後の設計案も、結局選ばれたものが最もメモリアルに相応しく、ペーター・べーレンスのファシズム建築感やミース・ファン・デル・ローエの大理石張りの壁ではなかったのだと案を見て納得する。しかしテッセナウの助手を務めていたのが後のヒトラーお抱え建築家のアルベルト・シュペーアだというのは衝撃の事実だった。テッセナウは助手の末路を見てどう思っただろう。あるいは当時は共感していたのだろうか。

参考 http://10plus1.jp/monthly/2018/08/issue-03.php @ Berlin, Germany

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